haiku(2017-10-21)から転載

権力は常に監視されなければならない、そのためには「政府発表は嘘だと思え」「テレビの政治報道は嘘だと思え」「政治家などロクなものではないと思え」と。先入観は、その先へ進むための取っ掛かりとしてなくてはならないけれど、それはモデル、あるいは仮説に過ぎない。確かめられたものではないという意識がなく、それが前提になってしまうと、誤りだった場合にはどんどん誤った方向へ行ってしまう。それに「ロクなものではない」という評価は相手をdisるものだから、すでに踏み込み過ぎていると思う。こういう、仮説と検証をきちんと区別できないズルズルでユルユルな(しかも気持ち良い)考え方が、いろんな場面で間違った方向へ進む道筋になっている。

haiku(2017-09-07)から転載

filinion.hatenablog.com

「愚かで怠け者だ」というのは、明らかに相手を悪く言う表現だ。では「知能と生産性が標準より低い」と言ったらどうだろう。これは悪口だろうか。悪口である場合もあるだろうけれど、そうでない場合もありだと思う。劣位を表す評価でも悪口でない可能性はある(標準があれば、必ず劣位は存在する)。その表現に悪意が含まれているかどうかは、実際は確かめようがないのだろう。なぜなら、それは純粋に内心の問題だから。この、確かめようがないところを利用して、悪質な悪口は成立する(”いじめといじりは違う”と言う主張とか)。逆に、必ずそこに悪意が存在すると考えるのも、そうでない人の反発を買うことになるんだろう。そして、真相は永遠に明らかにはならない。

haiku(2017-01-22, 01-26)から転載

wired.jp

情報のニーズとは「見たい」という気持ち。だから、フェイクニュース https://www.buzzfeed.com/sakimizoroki/fake-news-on-sns-and-democracy?utm_term=.ym9XA8j9Z#.iiRNOQ4Ll みたいなものが人々のニーズと合致していて、利益を生む。

これは、情報の性質として本質的なものなんじゃないか。デマの伝播みたいにパワーワードというものはあって、それが広がる力を持っているかどうかは、それが本当かどうかとは関係がなくて、人々がそれを欲しているかどうかで決まる。メディアは商売だから、そういう情報を伝えようとする。あらゆる情報の中から売れる情報を探し出して売るのがメディアの商売だから。ニュースなんてのも、そこにニーズがあるからそういうジャンルがあるわけだ。

wiredの記事にあるように、STAP問題のきっかけになった割烹着なんて、まさに情報の本質とは全く関係ないところで情報の売れる力をブーストするためのものだった。ニセ科学もまさにフェイクニュースと同じで、商売になるから売るし実際に売れる、でも買った人が幸せになるとは限らない(てかむしろ、買うと一時の幸せののちに不幸になる)。

だから、フェイクニュースみたいな情報(事実でない/反社会的な情報で、人々がそれを欲しいと思うもの)というのは、最近始まったものではなくて、伝播する力を持った情報にそもそも備わっている性質であり、それをそうたらしめているのは「見たいものを見る」というヒトの特性である。

大手メディアの流すニュースや情報だって、放射能関係とか、HPVワクチンの件とか、明らかに間違ったものはあるし、さかのぼれば大本営発表みたいなのとか、まぁ昔から普通にあるわけだ。そういういんちきニュースは、それを買う人がいるから売るわけで、「情報とニーズを結びつけると情報の正確さが損なわれる」というのは、情報の本質的な性質なわけだ。

haiku(2016-05-31)から転載

blog.shinoegg.com

グズる子に追い詰められた母親に対する理解が足りない、という話のようなんだけど、でも、「置いてっちゃうよ」って言うのは子に対する脅迫だよな。子といえども独立した人格なのに、脅迫してまで従わせるのが母親のするべきことなんだろうか。母親は社会の制約の中でうまくやらなきゃいけなくて、そんなことお構いなしの子の言うことなんて一々聞いてたら生活できないと思うのかもしれないけど、でも、世間をうまく渡ることと子を受け入れることとどっちが大事なんだろうか?世間の要請の中でうまいことやってくことって、そんなに優先順位の高いことなんだろうか?

haiku(2015-09-07)から転載

欧米に比べ日本は家事の要求水準が高い

 

欧米では夫の家事協力について、品質は求めていない

 

「夫は食器洗いをするときに泡をすすがない」という文句を言っているが、じゃあ食洗機を買えば」「赤ちゃんの面倒の見方にも逐一うるさい人が多い

 

この国はハイクオリティ地獄に落ちた

 

日本はクオリティ追及に限度がないと常々思ってるけど、家事に関しては、規範の基準が高くてそれを外れることが許されない、というのもあると思う。そうすることが快適だから、自分のニーズに合ってるから、という発想はなくて、自明のこととしてするべき規範が存在しており、それに合致しないものがあってはならない。妻が夫の家事のやりようについて文句をつける時、この規範が共有されていることが前提となっていることが多い。でも、固定的な規範を守ることより、各家庭の状況に応じたやり方を調整していくほうが、質の向上において効率的だろう。この効率的な方法の実現を阻害しているのが規範を自明とみなす心性。出る杭は打たれる(自分がすべきことは、自分が考えるのではなくて社会の要請=規範で決まる)というのが日本人に特有の性質ならば、それはどうしてなんだろう。

 

haiku(2015-08-18)から転載

togetter.com

親が家庭で自分の思った通りにならない時に不機嫌そうな顔をして、子を言語によらず雰囲気で支配し行動をコントロールしようとする(例えば、部屋が片付いていない時に、言葉で指摘せず怒っている表情でそれをわからせようとする。子がそれに気づかないと「言われないとわからないのか」と言って怒る)。親は自分の価値観が普遍的であると考えており、子がそれを共有するのは当然と思っている。したがって、言葉で指摘するまでもなく子は自分が何をするべきかがわかるはずである、と考える。この場合に、子がするべきことをしていない状態は、親の価値観の普遍性を傷つけることになる(子が親の価値観を否定している)から、親はそのことについて怒りを感じ、それを子にぶつける。この時、親は、部屋が片付いているかどうかではなく、子が親の価値観を踏襲するかどうか(すなわち、親の自己同一性を子が毀損しないか)、を問うている。一方、この時の子の認識は、親の機嫌を損ねると不愉快な目に会うのでどのような理屈であれ親の意向を察して機嫌をとるように行動するのが自分の利益となる、ということになる。

このような環境で育つ子は、親の顔色を伺い、親の機嫌を損ねないことを基準とした社会性を身につけることになる。不機嫌な表情は、避けるべき事態のひとつとして重要となる。なぜその人が不機嫌なのかに関わらず(むしろその原因が不明であるがゆえに)、不機嫌な表情はその後の理不尽で不快な事態を予告する警報だからである。

このようにしつけられた人は、不機嫌な表情と安心して同居することができない。不機嫌な表情の存在は自分がするべきことをしていないことを示しているからだ。それが今や自分の思い過ごしであるとしても、子供時代に刷り込まれた因果関係を自覚し払拭するのは困難なのかもしれない。

haiku(2015-07-27)から転載

『「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」ー放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考ー(一ノ瀬 正樹)』 

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf

危機を煽る人がいるのは、その人が自分の発言について「そうだね。その通りだね。」と誰かに言ってもらいたいからなんだと思う。「お前の言うことは正しい」と誰かに言ってもらうことがその人のアイデンティティー、というか、そう言ってくれる人がいることが「私はここにいても良いんだ」という安心を生むんだと思う。逆に言えば、そういう人がいてくれないと安心して生きていくことができない人なんだと思う。

一般に不安を生む状況がある時に、その不安を合理的に評価する能力がない人は、どうしたらよいかを誰かが教えてくれれば良いのにって思ってる。そういう時に「その不安は気のせいじゃなくて本物だよ。◯◯しないといけない。」と言う人がいれば、「そうか、◯◯すればいいのか、それで問題は解決する!」と思って安心する。安心という気持ちは人を強力に駆動するから、安心をもたらしてくれた人(=危機を煽る人)のことは高く評価する。この高い評価が、危機を煽る人が求めている安心(ここにいても良い)を生む。これで、不安な人と煽る人の依存しあう関係が成立する。

放射線被曝が実質的な被害を生じない程度である時に被曝の害を言い立てることは、リスクトレードオフの観点からすると全体的なリスクを高めるという機能をもつのは、文中にある通り。でも、それを指摘したところで危機を煽る言説がなくならないのは、上記のようなからくりがあるからだと思う。合理的な評価においては利益より損失の方が大きいにもかかわらず、それがなくならないのは、別のところで実は大いなる利益(安心という気持ちの獲得)が発生しているからだ。

危機を煽る言説を減らすための根本的な方策は、「私はここにいても良いんだ」という確信を健全な形で獲得する場を保証することなんだろうと思う。つまり、子育てにおける自我の確立について、今は当事者たちが自己流でやっているのを、最低限必要な要件はこれですよ、というような形で一般に示すことができれば良いのではないか。 ついでに言うと、この健全な自我の確立は、社会的な問題を広範囲にわたってかなりの程度解決することにつながるんじゃないか、と思ってる。