猫は生きているのか

シュレディンガーの猫は、箱を開けてみるまで生死不明である(というか、半死半生状態)。けれども、その箱に量子的に毒ガスを発生するギミックが付いていなくても、箱の中の猫が死んでいるかどうかは、実はわからない(この場合は、半死半生ではなくて、生きているか死んでいるかのどっちかだが)。さっきまで元気だった猫が箱の中で静かに死んだ可能性は、ゼロではない。あるいは、箱になんか入れなくても、いつものように朝起きて、ご飯を食べた後に、出かけていった猫が二度と戻って来なかった、そういうことは(完全室内飼いが奨励される現在は別かもしれないが)さほど珍しくはない。要するに、今、目の前にその生きている姿を確認しているのでなければ、猫が生きているのか死んでいるのか、それはわからないのだ。

そして、その不確かさは猫に限らない。あらゆるものが、今、目の前で確認できるもの以外のあらゆるものが、不確かだ。そういう不確かな世界の中で、何のわずらいもなく生きていけるのは何故なのか。有り余る不確かさから呼び起こされるおびただしい量の不安から自由でいられることの理由、メカニズム。そういうものの存在によって、日々を平穏に過ごしながら、そういうものの存在に気付かない。だから、あまたある不確かさのうちのひとつが不幸な事実に転じた瞬間に、人は驚愕し、奈落へと引きずり込まれる。その結末はずっと以前から用意されていたにもかかわらず。

そういう不確かさに日々おびえて暮らす人は、むしろ病気とみなされる不思議。

忘れ物がなくならない人

「失敗したことを責めるのはやめてほしい」されたら無視して良いという新社会人への怒り方を描いた漫画 - Togetter

 

はてブにも書いたけど、

「失敗したことを責めるのはやめてほしい」されたら無視して良いという新社会人への怒り方を描いた漫画 - Togetter

寝坊とか忘れ物が自助努力で改善するのは確かにそうだけど、その努力の程度は人それぞれで、実質的に不可能なほど大変な人がいるというのも事実なんだよ。想像できないかもしれんが、本当にそういう人はいるんだよ。

2019/05/29 10:15

b.hatena.ne.jp

例えば、忘れ物をしないようにするための努力が、1gの鎖の人と100kgの鎖の人と、いるんだよ。だから、1gの鎖でやれる人は、みんながそうだと思わないで、100kgの人もいるかもしれないことを知っていてほしいな、と思う。

 

だからと言って、100kgの鎖の人がみんな「できなくてもしょうがないじゃん」と開き直ってるわけでもない。忘れ物なんてしなくて当たり前の世の中だから、そういう中で生きていく以上、そういう能力がないことはとてつもなく生きづらいことだ。だから、「やっちゃったことはしょうがないじゃん」という意識で生きられることは、そういう人にとっては福音なんだ。そうでもなければ、生きていくのがすごく大変だから。

問題にするべきなのは、どうしたら忘れ物をしなくてすむようになるか、というテクニックの部分であって、忘れ物をする人の精神が甘えてるとかたるんでるとかいうところではない。精神論で解決できるくらいなら、とっくに解決しているんだ。そうじゃなくて、それは技術的にしか解決できない問題だから、本人がそれを手に入れるための方法が有効。でも、それは人によって様々でこれという既存の決定打があるわけでもないので、色々と試したり調整したりする必要がある。そういうことは、子供の頃に色々やってみて身につけておくのが良いんだろうけれど、そういう観点からの指導が受けられる環境にないと難しい。なぜなら、多くの人の鎖はせいぜい数g程度だから、精神論でなんとかなるはずだという思い込みが蔓延していて、それで、100kgの鎖を引きずる人の大変さが共有されないから。鎖の重さは目には見えないからね。

 

haiku(2018-09-12)から転載

note.mu

全ては善意です。善意を断ると、みんな怒ります。 善意を踏みにじったり無下にされたことで、報復にうつります。 “ だからガンになったんだ。”“ 地獄に落ちますよ。”“ 苦しんで死にますよ。”などなど。

地獄への道は善意で云々、というやつ、これと同じのに気がついた。

 

善意の助言者「〇〇が効きますよ」
がん患者「帰れ」
善意の助言者「死ね(憎しみ)」

ニセ科学批判「それニセ科学ですよ」
ニセ科学信者「うるせー」
ニセ科学批判者「これだから(憎しみ)」

 

善意を踏みにじられて憎しみがつのるの、一緒だよね。事実として正しいかどうかとは、関係ないんだな。

haiku(2018-09-19)から転載

『《サン・チャイルド》設置について』

http://www.yanobe.com/20180810_KenjiYanobe_Statement.pdf

大気が綺麗になったことを表すようにヘルメットを脱いで深く息をし、胸のカウンターは安全を示すゼロになっています。もちろん、自然放射線があるので、空間線量がゼロになることはありませんが、「原子力災害のない世界」という象徴的な意味を込めました。

作者の意図がこれだとすれば、これを福島市に置くことに嫌悪感を示す福島市民がいることは当然だと思う。なぜなら、この像が示しているのは、一度は汚染による危険な状態があったということだから。 福島市内に事故による放射能汚染はあった。でも、汚染によって危険な状態になり、その後、除染等によって安全が回復した、のではない。事故の後、汚染はあっても、危険な状態はなかった。ヘルメットを取る以前に、ヘルメットをかぶる必要がそもそもなかったのだ。それなのに、この像は、その場所がかつては汚染によってヘルメットが必要だったということを示している。これは、福島市をはじめとする福島県の大部分が今だにこうむっている「風評被害」の風評そのものだ。

また、胸のカウンターがゼロになったら安全というのは(カウンターが示す数字が空間線量率でもリスク指標でも)、いわゆるゼロリスク信仰そのものだ。このゼロリスク信仰もまた、福島県をさいなむ風評被害を生む心理的土壌である。 こういう話をいい加減にせず、きちんと理解して、当事者の気持ちに対応することができないなら、そういうものは福島県の外でやればいい。福島県には、事故の当事者となることで、リスク概念を通じた安全管理を学び身につけた人達がいるのだ。そういう人達に旧態依然の原子力災害に対する感情を押し付けたって、何の意味もないじゃないか。

「サン・チャイルド」像に対する不快感を理解せず、その不快感の表明を不寛容だとか「福島で放射線の話題に触れちゃいけない」「福島はめんどくさい」と評する向きもあるようだ。というか、この不快感がほとんど当事者以外に理解されていないように見えるのが恐ろしい。

b.hatena.ne.jp

 

原子力災害のない世界」というのが原発のない世界なら、それは原発をなくすことで生じるリスクのためにヘルメットが必要になる世界かもしれないのに、何ともお気楽なことだと思う。

haiku(2018-07-21, 07-24)から転載

www.youtube.com

撤去に反対の人の意見で多かったのは、モニタリングポスト(本当はリアルタイム線量測定システム)を見ることで安心できる、1Fはこの先長いこと廃炉が終わらないのにモニタリングポストがないと心配、という話。測定器を維持するのは経済的・技術的に大変だから、県内のモニタリング結果をリアルタイムで見られるようなモニターをおくとか(本当はウェブで見られるんだろうけど)、何か目に見える施設で代替したらどうかと思った。もし1Fで何か起きたとしたら、その地点だけの線量率がわかるよりも、より広域の状況がわかった方がその後の行動を決めるのに役立つし。要するに、毎日そこに行けばいつも見られる、地蔵みたいなものが望ましいのではないか。

撤去が提案されてるのはリアルタイム線量測定システムだけで、モニタリングポストは現状維持だって規制庁の人は言ってるのに、発言する人は次々と「モニタリングポストは残すべき」「モニタリングポスト撤去に反対」と言うの。人の話聞いていないでしょ。いくつかのキーワードの組み合わせに反応してるだけ。まるで東ロボくんのようだ。中国大使館の人の話が紹介されるくだりでの聴衆の反応が、それを象徴している。これじゃ、話し合いになるわけがない。

haiku(2018-05-15)から転載

www.technologyreview.jp

これの不快感っていうのは、対話において相手に払った敬意が、実は対人でなくて対機械だった事からくるのかな。最初から相手が機械だと分かっていれば人に対応するのとは別の対応があったのに(そして多分それは対人の場合よりもコストをかけないもの)、それが分からなかったのでバカを見た、あるいは、不当にコストを支払わされた、そこから来る不快感なのではないか。

もしそうであれば、そういう人は対話とか対応することにおいて支払うコストが相手によって違うということになる。例えば、歳下とか目下の人に対しては適当にあしらっておくとか。もっといくと、特定の身分、職業、国籍、人種の人には対応が違うとか。そういう話なのかしら。

haiku(2018-02-22)から転載

「現実に実際に、世の中はそんなに差別したり偏見を持ったりしていないのに、わざと取り上げて頂きたくないです。

「差別・偏見を持たれるよ」という呪いかけやレッテル貼りをして欲しくないのです。

 

差別っていうのは、内容はいろいろだけどそのメカニズムは全部同じで、人が克服していかなければならない課題だと思う。「あなたの住んでいるところは差別の対象だ」なんて言われていい気持ちがしないのは当然だけれど、「私のところは違います」で済む問題でもないと思う。外国で「中国人は帰れ」なんて言われて「私は日本人です」と返すようなものだ。その差別がいけないのではなくて、全ての差別はいけないのだから、そして、全ての人は差別する心を持って生きているのだから、自分は関係ないからいいです、では済まないし、済ませてはいけないのではないか。福島に住む人が、そんなことに心を配って生きていけるほど余裕のある状況にないことは想像するのだけれど。