haiku(2011-04-19, 04-21, 04-22)から転載

hideyukihirakawa.com

一般市民は、確かに科学的・技術的なことには無知かもしれないが、科学技術の専門的知識とは全く種類が異なる別の知識や疑問をもとに、賛否を判断しているのであり、感情的に反発しているわけではない。

でも、その賛否を判断するところの”社会的”な評価軸というのは、結局は感情の問題なのでは?すべての基準が感情的なものであるなら、どうやって合意点を見出せるのか?

なんか、純粋に合理的な評価軸が存在しうると思っていたよ。気のせいだったのか?死ぬかどうかを勘定したって、それをどう評価するかは感情の問題だもんな。んで、それ言い出したら、もうなんでもありじゃんか。なんだかなー。

”傷つけられない権利”(放射能が怖くて精神的に被害を被るケース)とか、差別のこと(感染症を忌避するのは差別だけど放射能を忌避するのは差別じゃない。低線量被曝を極限まで回避したいと思うことに意味を見出すのなら、避難区域からやってきた人に放射線サーベイを義務付けることを認める必要があるんじゃないか)とか、どう考えたら良いかぜんぜん分からない。

ふた晩考えたけど。 やっぱり、感情的、感覚的評価は、個人的な問題だということでいいんじゃないか。全員が同じように感じてるんなら、それは問題になり得ないし、違う感覚の人がいるなら、それは、個人の問題なので立ち入らないことにするか、または、多数決で決めるかしかないよな。 現状の過剰な拒否感を社会一般のものとして扱うのには、どうしても賛同し難い。

ただし、それが個人的な感覚で現実に即したものでは必ずしもないことが当人に理解されていない場合も多いと思うので、その点についての考慮は必要だと思う。ていうか、そういう切り分けがはたして現実に可能なのかどうかというと、たぶん不可能なような気がする。