haiku(2011-06-09)から転載

togetter.com

平川「全面的な不信状態でなれば、知識提供と対話は、コミュニケーションの目的に応じて色々な割合の組み合わせで行えばいいのだと思います。」「極端な話、いちいち知識を説明して知ってもらうことより、色んな対話や協働を通じて信頼してもらい、ある種のお任せというか、「信託」してもらっちゃうというのもありえます。逆にきちんと正しい知識・情報を身に着けてもらうことが大事な場合は、それに専念すればいいわけです。」

つまり、一般の人に、理解してもらうか、対話を通じた信頼に基づいて信託してもらうか、二つのモードがある、ということだよな。

それに対して、菊池「知識の裏づけを欠く信頼は脆弱だと思いますけどね。それはあまりやりたくないんじゃないかな」「知識や科学的思考の裏づけがない信頼は、なにかでつまづくと、すぐにトンデモみたいなのに転んでしまいそうですね」

平川氏が「信託」というのは、現実問題として、一般人にすべてのことを科学的に正しく理解してもらうのは不可能であり、それでも一般人が科学政策にコミットするにはそれしか方法がない、かつ、一般人の科学(者)に対する信頼度が政策を評価する上で有効でもある、ということなのではないか。

一方菊池氏としては、科学(者)に対する信頼そのものが、科学に対する評価としてあり得ない、ということなのでは。「知識や科学的思考の裏づけがない信頼」というのが、どういうことかいまいちよく分からないけど(どういう信頼ならOKなの?)。

んで、現実には一般人は科学(者)を信じるよりほかはないわけだけれど、そのなかには、良い信頼と悪い信頼があるんじゃないか。たとえば、菊池氏の「知識や科学的思考の裏づけが」ある信頼とか。科学者だって自分の専門以外の分野についてはけっこう信じてることがあると思うけど、そういう信頼は、合理的な判断に基づいていて良い信頼に分類できるのかもしれない。

平川氏のいう「信託」がそういう良い信頼だけによって行われるなら、菊池氏も納得なのかなぁ。だとすれば、教育としては、良い信頼ができるようになる科学リテラシー、科学コミュニケーション、などが求められ、学界としては、良い信頼と悪い信頼を区別するための情報の発信をすればよいのかな。 で、良い信頼と悪い信頼とは、一義的に区別できるもんだろうか?あるいは、外から見分けることが可能だろうか?これはたぶん、不安の解消とも関係しそうだよな。

njamota.hatenablog.com

で書いたように、不安を解消するための信頼は合理性を欠いているので、科学的には正しいという保証がなく、そのために悪い信頼なんだと思う。