haiku(2011-06-12)から転載

d.hatena.ne.jp

  そもそも、マスメディアによるニュース報道というものが、ヒトのニーズを満たすためにあるのだと思う。じゃ、そのニーズって何よ?というと、社会状況の確認、特に、ヤバいことが起きていないか、起きてたらどうすればその被害に遭わずにすむかを知る、ということなんじゃないかと思う。 で、被害に遭わないための情報というのは、多分合理的に選択されるものではない。”それヤバいね”という危機感が払拭できるような情報を得て安心する、それが情報収集の動機だ。だから、その情報によって合理的に危機回避ができるとは限らない。むしろ、最近はやりの”わかりやすい”説明のほうが必要だったりする。そして、マスメディアも受け手のこのようなニーズを共有していて、合理的な危機回避のための情報よりも、”わかりやすい安心”を提供しようとする。

危機感のような不快感情の払拭については、

njamota.hatenablog.com

で書いたとおり。そういうわけで、元記事で「現在の状況や課題を「どう伝えるか」という問題では、メディアの取材力と咀嚼力の問題が非常に大きい」というけれど、メディアが目指すところとkamezo氏や菊池氏が目指すところがそもそも違うのだと思う。メディアは巨悪を見えるかたちで指摘することを通して安心を提供する。科学者は合理的な説明を通して安心を提供する。あとは、受け手がどっちの安心を選ぶのかということ。

で、一般には合理的な説明よりもわかりやすい安心が選ばれるのだろう。そして、この選択は当事者には意識されない。つまり、どちらを選ぶかは当事者にとって自明であり、自分が選択しているという意識がそもそも無いのだと思う。自分の選択がどういう結果をもたらすか、また、選択されなかった説明がどういう価値を持っているか、そういうことが客観的に評価された上での選択ではない。ここに、合理的な説明を受入れられない理由があるんじゃないだろうか。 じゃ、なぜ人々はわかりやすい安心を選ぶのか。それは、不快感情の払拭という動機が合理的判断よりも強力ですばやいから。判断できる根拠を集めるために判断をサスペンドしておくことの不安に耐えられないから。

ヒトの判断の方法として、それが自然なやり方なんだろう。合理的な判断を下すために、客観的事実をコツコツ集め続けるなんてのは、感情ー行為系が許してくれないんだろう。