haiku(2011-06-14)から転載

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 これ読んで、やっと分かった。文科省などが発表する環境モニタリング結果や許容される線量の設定に納得いかない人たちの考えは、こういうことだ(いや、たんなる藁人形かもしれんけど)。柏市にすむ人を例にすると:

  1. 東大柏(1)の測定点で環境放射線量率が0.12μSv/時から0.39μSv/時に上昇したがこれは看過できない。
  2. この線量率は危険なので、低減するなどの対策が必要だ。
  3. それをする責任を有するのは、原因企業の東電か監督責任のある政府である。
  4. しかるに、それらの対策が行われないのは無責任だ。
  5. また、学術的見地から客観的な情報を社会に提供すべき大学・学者等から現状が危険ではないという発表があるのはけしからん。 これが良いとか悪いとかの話ではない。

 こう思う人たちにとっては、こう思うことが当然に正しくて自明なのだ。「さまざまな説がある場合、子どもをもつ親のように安全サイドに立たざるをえない人の立場を考えれば、悲観的なリスク評価を排除するのは適切ではありません」とあるけれど、子どもを持つ親が安全サイドに”立たざるをえない”という表現が、この自明性を示していると思う。別に、立たなければならない理由はない。それこそ、楽観的なリスク評価を理由無く排除する必要はない。けれども、親自身ががそうせざるを得ないこと、親の周囲も親がそうであることを”そうせざるを得ない”と言って了解すること、そういう心理バイアスをヒトは持っているということなんだろう。つまり、子どもの健康を害するものは何であれ決して許容しないということ。したがって、この心理バイアスによって、環境放射線量率の上昇量の危険性を合理的に見積もることよりも、子どもの生きる環境では線量率を徹底的に低減することが優先的に選択され、しかも、それは自明のことと認識される。

これが、ALARA原則の求めるところなのかどうか、よく分からない。また、この文書にも”じゃ、どうしたらいいの?”という話はない。ただ、根拠無く悲観的なリスク評価を排除するなというだけだ。 LNT仮説は仮説のままだけど、原爆被災地やチェルノブイリ周辺では精神的な症状が広く見られたのは確かみたいだから、そういうことも考えないと、権威が情報を出すっていうのは、簡単じゃないよな。根拠のない見解の発表は確かにどうかと思うけど、どこまでが常識的な考え方なのか、どこまでやるのが現実的に可能なのか、そういうこと自体がすでに主観の範疇だし、あり得る可能性すべてを考慮にいれることにどういう意味があって、どういうリスクがあるのか、御用学者なんて言われることが悪いことだとも限らないのかもしれないし、いろんな評価軸がありすぎて、もうわけ分かんない。