haiku(2011-07-08)から転載

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九州電力玄海原発再稼働に関する説明会のあれの件で。

「フェアじゃないのは大前提として、利害関係者がこういうお願いをするのは当然のことと考えて行動した方が民主主義社会では現実的に思う」

まったく同感。というか、実際にあちこちで普通にやってるだろ。

それと、パブリックコメントのような集め方をした意見は、賛成・反対の分布を見ても意味がない(動員の仕方で違ってくるので)。実際にどういう扱われ方をしてるのかは知らないけど、意見のバリエーションを見るためのものなんじゃないの?

もうひとつ、ここは判官贔屓で言いたいんだけれど、動員でもかけないと原発に賛成の意見なんて、ほとんど出てこないんじゃないの? 今回の事故にまつわる人々の感想を見聞きすると、本質的に人は放射能が怖いので、原発とは共存できないらしいことがうかがえる。これはもう、理屈ではなくて感情の問題なので、エネルギー政策全体のなかの一部として原発をどうするか、とか、原発の危険性を合理的に評価する、とか、そういう話し合いを一般市民の間で成立させるのは、ほとんど不可能に思える。

一方で、事業者は少しは実情も知ってるだろうから、合理的な話し合いをしたいと思っていても、市民がまともに相手をしてくれない、と、思ってるんじゃないの?

市民が事業者を信用しないのと同じように、事業者も市民を信用していない。だから、正攻法ではなくて、動員でもかけて都合の良いポジションを獲得しようとするんじゃないのかね?

私は、どっちもどっちだと思うよ。まるで、イスラエルパレスチナの対立みたいだと思う。

なんというか、まず、たがいに話が通じなくて、それで、相手はこっちの話を聞いてくれない、理解しようとすらしない、と、たがいに思っている。そのことが、たがいの反感を読んで、あとはこじれていくばかり。 安全神話なんていうのが、もしかしてこの対立から生み出されたのだとしたら、市民の側も共犯ということにすらなるんじゃないかとも思う。もちろん事故の責任は事業者がとらなければならないけれど。