haiku(2012-01-26)から転載

t-hirosaka.hatenablog.com

もし、西門豹が「河伯娶婦なんて意味ないからやめなされ」と言ったところで、そうはならなかったと思う。それだけ弊害が出ていながらやめられないのは、人々がその儀式になにがしかの意味を見出している(=信仰がある)からだと思う。それは例えば、生け贄を捧げないと川が氾濫するとか、そういうこと。西門豹がしたのは、人々のそういう信仰を不合理として否定しないで、信仰の枠組みの中で、川が氾濫するんじゃないかという不安を人々に引き起こさずに、儀式を継続しないでもよい状況を作り出した、ということなんじゃないか。彼が私腹を肥やす関係者を次々と河に投げ込んだのは、皮肉とかじゃなくて、「生け贄を捧げるからには、当然に河の中に河の神がいて、生け贄はそこに行っているはずだ」という、人々の信仰に調和的な考えにもとづいている(それが同時に関係者の粛正にもなっている)。これ以降、儀式をしないでも、人々は不安に思うことはないだろう。なぜなら、ボールは神に向かって投げられ、いまや人々はその返事を待っているところだからだ。返事が来るまで、人々は何かをする必要はない。そして、正統な返事を携えた使者(投げ込まれた人々)は、決して戻ってくることはない。

このような見方は、また、西門豹のおこなった行為に正統性を与えることにも貢献する。もし「儀式にかこつけて私腹を肥やしているのはけしからん」と言って粛正をおこなえば、その判断の妥当性を問われることは避けられない。しかも、あとで河の氾濫でも起きたら、その責任も負わねばならなくなるかもしれない。けれども、彼がやったやり方なら、遺族や儀式の継続を欲していた関係者も文句の付けようがない。あれを粛正だと言ってしまうと、儀式が迷信にすぎないことを認めることになってしまうからだ。そして、それを認めてしまうと、今度は、いままで私腹を肥やすために意味のない儀式をおこなってきたことがあからさまになってしまう。だから、粛正された側は文句を付けることができない。

だから、西門豹は合理主義から(合理主義が実現するべきだと思ったから)河伯娶婦を廃したのではなくて、実利面からそうするのが良いと思って(もしかしたら苦しめられている民衆を哀れに思う気持ちもあったかもしれないけれど)迷信を利用して河伯娶婦を廃したのだと思う。「古代の行政官としての節操をまっとう」するということがどういう意味なのかは全然分からないけれど。

この河伯娶婦という儀式は、すでに書いたけど迷信である。意味あるのかなぁ、と疑ってもやめることができない。なぜなら、河の氾濫はいつかは必ず起きるから。で、なぜ人々は儀式と氾濫の間に関係があると思うのかというと、そう言われているから。というか、氾濫を避けたいという気持ちが儀式を必要とするのだと思う。例えば、お札を買うように。これは、スキナーの見つけたハトの迷信行動と一緒なんじゃないか。もう、ほ乳類ですらないですよ。