haiku(2015-07-27)から転載

『「いのちは大切」、そして「いのちは切なし」ー放射能問題に潜む欺瞞をめぐる哲学的再考ー(一ノ瀬 正樹)』 

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/Ichinose2015b.pdf

危機を煽る人がいるのは、その人が自分の発言について「そうだね。その通りだね。」と誰かに言ってもらいたいからなんだと思う。「お前の言うことは正しい」と誰かに言ってもらうことがその人のアイデンティティー、というか、そう言ってくれる人がいることが「私はここにいても良いんだ」という安心を生むんだと思う。逆に言えば、そういう人がいてくれないと安心して生きていくことができない人なんだと思う。

一般に不安を生む状況がある時に、その不安を合理的に評価する能力がない人は、どうしたらよいかを誰かが教えてくれれば良いのにって思ってる。そういう時に「その不安は気のせいじゃなくて本物だよ。◯◯しないといけない。」と言う人がいれば、「そうか、◯◯すればいいのか、それで問題は解決する!」と思って安心する。安心という気持ちは人を強力に駆動するから、安心をもたらしてくれた人(=危機を煽る人)のことは高く評価する。この高い評価が、危機を煽る人が求めている安心(ここにいても良い)を生む。これで、不安な人と煽る人の依存しあう関係が成立する。

放射線被曝が実質的な被害を生じない程度である時に被曝の害を言い立てることは、リスクトレードオフの観点からすると全体的なリスクを高めるという機能をもつのは、文中にある通り。でも、それを指摘したところで危機を煽る言説がなくならないのは、上記のようなからくりがあるからだと思う。合理的な評価においては利益より損失の方が大きいにもかかわらず、それがなくならないのは、別のところで実は大いなる利益(安心という気持ちの獲得)が発生しているからだ。

危機を煽る言説を減らすための根本的な方策は、「私はここにいても良いんだ」という確信を健全な形で獲得する場を保証することなんだろうと思う。つまり、子育てにおける自我の確立について、今は当事者たちが自己流でやっているのを、最低限必要な要件はこれですよ、というような形で一般に示すことができれば良いのではないか。 ついでに言うと、この健全な自我の確立は、社会的な問題を広範囲にわたってかなりの程度解決することにつながるんじゃないか、と思ってる。