理解による受容と理解によらない受容

 

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普遍的な理路を共有すれば、相手の発言が理解できるし、同じ結論に達しなくてもそれを受け入れることはできる。そうならない時は、適用している理路が異なっているか、あるいは前提が一致していないか、いずれかから来る齟齬があるはずなので、話を詰めていくことでその齟齬を明らかにして、そこから話を修正すれば理解に到達できるはず。

 

そう考えることが間違いだとは思わない。原理的には正しいんだろう。でも、現実の会話において、常にそれが実現するわけではない。話しても話しても、どうしても平行線が交わらない。そういう時には「相手が間違っている」「相手が自分の話を理解していない」と思いがちだ。だって、自分はこんなに真摯に相手の発言を聞いて、理解しようと努め、相手の理路に破綻があればそれを指摘してより良いものになるように協力を惜しまないのだから。だけど、そういう自分の態度(自分が正しくて相手が間違っていると思うこと)が相手を遠ざけて、たがいの理解をさらに難しくすることがある。自分のことを客観視するのはいつも難しい。

 

対人関係において最も重要なことは「HRTの原則」だって、私は信じている。これはもう信仰のレベルであって、理由なんか説明できないんだけど、いろんなものを読んで「ああ、こういう関係はすばらしいな」と思う時には、たいがいHRTの原則が生きている。だから、人との関係がうまくいかない時はいつも、HRTの原則を思い出すようにしている。

 

相手の言うことがおかしい、理解できない、なんでこんなこと言うかな、なんて思った時は、自分を虚しくして謙虚になり、相手を信頼して、相手の発言を尊重し、相手の言うことをそのまま受け入れるようにする。もちろん、どうでもいいような相手には、そんなことしない。「アホか」でおしまい。でも、相手が自分の大事な人なら、「なんでそういうことを言うのかさっぱり理解できないけれど、相手がそう考えているのは事実なんだから、それはそれとして受け入れる」。つまり「あなたはそう考えるんですね」。

 

これは、例えるならバンジージャンプみたいに、1本のロープに自分の全てを託して谷底に向かって跳躍するようなものだ。自分の意思で飛び込むのであって、成り行きでできるものではない。それなりに勇気が要る。それでも、自分の大好きな、大事な人が相手なら、そうしようと思う。なぜなら、その人が自分を害するようなことをするとは思わないから。その点についてはその人を信じようと思うから。だから、自分の判断を棚上げして、その人の言うことに自分を託す。

 

理解しようとする努力を放棄しろというのではない。むしろ、それは続けなければならない。たがいの理解はいつだって大切だ。そうじゃなくて、理解できないものを拒絶してはならない、ということなんだ。

 

「なんでも話せば理解できるはず」と思っていると、理解できないことを受け入れられない。それは、理解できないことを話す人を否定し拒絶する態度だ。ここで間違っているのは、理解できない話をする相手ではなくて、「なんでも理解できるはず」と思っている自分なんだと思う。

 

世界は理解できるはずだし、問題は解決されるべきだと思って生きてきたんだけど、やっぱりそんなことはないんだよな。自分が理解できることなんて世界のほんの一部に過ぎないし、解決できる問題も然り。だから、理解できないことも、解決できない問題も、それはそのままに受け入れていくしかない。理解できなくてもそれが世界の実際の姿だし、それを受け入れなければ世界の全てと関わり合っていくことができない。否定し拒絶したからといって、それがなくなるわけではないのだから。