労働の意義

引きこもりを脱出した

「感謝されるようなことを何もしていない」目の前で感謝してくれる人はいなくても、増田の仕事が必要で金払って買ってる人がいるからこそ増田は給料をもらえる訳で、つまり、増田は必ず誰かの役に立ってるんだよ。

2020/07/06 11:20

b.hatena.ne.jp

 

朝、目覚ましが鳴って、起きる。洗面台に行って洗顔フォームで顔を洗い、服を着替える。台所に行き、冷蔵庫から牛乳とシリアルを取り出して朝食の準備。テレビをつけ、テーブルについて食事をする。財布とケータイをカバンに入れ、鍵を持って仕事に出かける。

 

さて、ここまでに出てきたもので金であがなわれたものは何か、というと、目覚まし、洗面台(や台所を含む居住設備)、洗顔フォーム、服、冷蔵庫、牛乳、シリアル、テレビ、テーブル、財布、ケータイ、カバン、鍵。これらのものを、金で買わないで自分で用意しようとしたら、とんでもないことだ。だいたい、テレビやケータイなんて、自力で一からで作れるはずがない(必要なパーツを揃えるだけでも、大きな工場が何種類も必要だ)。そういうものに囲まれているのが我々の生活であり、それを可能にしているのが、人の社会である。

 

人は生きていくのに必要な仕事を分業して専業化することで作業効率を上げた。例えば、魚をとる担当と米をつくる担当を決めて、それぞれの仕事とする。魚をとる人は漁具とか漁場についての知識を増やし、工夫を重ねる。米をつくる人も同様だ。そうやって、自分の担当する分野のみに専念することで、その分野での知識と経験を深めることができる。そして、両方をやっていた時よりも作業効率が上がり、より短時間により多くの収穫をあげることができるようになる。そうすると、それまでになかった「余剰時間」が発生する。余剰時間は、新しいものを開発することを可能にする。例えば、新しい魚種の採取方法とか、あるいは、全く関係のない新分野の開拓(船を利用した運輸業とか)、あるいは、余暇の充実(新しい楽器の発明とか)に当てることもできるかもしれない。そうやって、より良いもの、より便利なもの、よりステキなものを開発し続けて、発展してきた結果が現代文明だ。

 

そして、この文明の発展を支えているのが、市場だ。分業が前提となっているのだから、自分がどんなに素晴らしいものを作っても、それだけでは生きていくことができない。他人が作っているものを手に入れることができなければ、生活に必要なものをそろえられない。だから、市場に行って、自分の作ったものと、他人が作っていて自分に必要なものとを交換する。貨幣はこの交換によるものの流れを流動化させるのに役立つ。貨幣を仲立ちにする事で、自分がたった一種類のものしか作っていなくても、どんなものとでも交換することができる。例えば、自分が作っているのが釣り針だとして、釣り針が欲しいのは漁業者だけだから、釣り針と直接交換できるのは漁業者の持ち込む魚しかない。米をつくる人は、釣り針なんて仕事に必要ないから、釣り針と米は交換してくれない。でも、漁業者が釣り針をお金で買ってくれれば、今度は自分がお金を使って米をつくる人から米を買うことができる。そうやって、お金を使うことでものの交換が流動化すると、市場に行けばなんでも手に入るようになる。そうすると、ますます専業化が進み、作業効率が上がって余剰時間が発生し、さらに新しいものが開発される。

 

つまり、今の人の社会は、非常に細分化した専業を生業とした人々が集まることで成立している。みんな、自分の仕事で作り出したものだけでは生きていけない。たがいに自分の作ったものを交換しあって、そうして豊かな生活をしているんだ。「人はひとりでは生きていけない」という言葉は、この状況を指しているんだと私は思っている。

 

何か物を買う時、それを作ってくれた人に感謝せよ、と言われることがあるけれど、「金を払ってるんだし、私が頼んで作ってもらったわけでもないし、別に感謝なんかしないよ」と昔は思っていた。でも、今の生活を支えているのが人の社会における仕事の分業化・専業化なんだ、ということに思い至ったら、「売ってるものがある。金さえあればそれを買うことができる。」という事実が、実はすごいことだと思うようになった。確かに私が誰かに頼んで作ってもらってるわけじゃない。でも、誰かがそれを作ってくれなければ、私はそれを買うことができない。私が欲しいと思う物、それを作っている人がいる、そのこと自体が(経済的な必然があるとしても)奇跡のようにも思えるのだ。その人がその仕事を選んでくれたことをありがたいと思うようになった。

 

本当に自力だけで生きることを選ぶ人もたまにはいるだろう。けれども、大概の人たちは、この社会に参加して、自分の分担をこなしてみんなと成果を分け合う暮らしを選んでいる。誰かに強要されてそうしているわけではない。 みんなで協力して生活しているなんて意識していない人も(昔の私みたいに)たくさんいるだろう。でも、その結果として豊かな暮らしができている。それは、自分ひとりの力では到底実現できない豊かさだ。人の社会がそういうものであること、人々がそういう社会を選んでいること、それはことほぐべきものだと私は思うのだ。

 

そういうわけで、ある仕事が仕事としてやっていけるということは、必ず誰かがそれを買ってくれていることを意味していて、買ってくれる人がいるということは、それを必要とする人がいる、ということだ。だから、社会で仕事をしている人は、必ず誰かに必要とされている。あなたがしている仕事は、必ず誰かの役に立っている。人の社会における仕事というのは、そういうものなのだ。だから、人の役に立つことをしたいなんて取り立てて思う必要はない。そんなこと、仕事していれば普段からやってることなんだよ。

 

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そういうこと。