強迫の罠

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何かに思い悩んでいるときには、それを注視「し続けない」ことも大事なのではないかと思います。何事でも注視し続けていると、知らず知らずのうちに堂々めぐりになっていたり、またその注視している対象だけが全世界であるかのような錯覚にとらわれがちだからです。

こう言うと聞こえは悪いかもしれませんが、「よそ見」する習慣を意識して身につけることが、「死んでしまいたい」「消えてしまいたい」という思念(とその発生)を防ぐには良い方法かもしれません。

 

なにか解決したい問題があって、それについて深く考えている状態が『悩み』なわけだから、普通、悩みがあるときは、それについて何かにつけて考えているわけだ。そして、それは悩みを解決したいからこそなんだけど、そのような態度が解決を遠ざけている場合があるらしい。

 

さしあたってひと通りのことを考えてみても解決策が浮かばない時は、多分そういう状態。世の中の悩みは、努力すれば必ず解決できるというものばかりではない。というか、努力で解決できるならそうしているわけで、そうならないからこそ悩んでいるのだ。

 

なにか行動すれば解決する、という種類の悩みではない場合は、悩むこと自体が苦しみになってしまうことがある。悩みから解放されたいのに、解放を求める気持ちが悩みを呼び、その悩んでいる状態自体が苦しい。苦しみから解放されるために自ら苦しみを求めているような状態。こういうのは、強迫的な悩みと言ってもいいんじゃないかと思う。

 

悩み自体が解決できなくても、悩まなくなれば、悩む苦しみからは解放される。そのために、悩みから意識をずらす、というか、視線をそらす、というか、そういうことが有効なんだと思う。聖書には、人のはからいから離れて神のはからいに委ねよ、という趣旨のことが書いてあるけど、これはまさに人の意識を悩みから引きはがす効用を目的としたものだと思う。

 

「それじゃ悩み自体は解決できないじゃん」とお思いでしょう。確かにそれはそうだ。でも、その悩みは本当に解決しなければならないものでしょうか。

世間一般的には、苦しかったり辛かったりすることがあっても「逃げ出さず、しっかりと向き合わなくてはダメだ!」という考え方がメジャーなようです。

例えば、病気になった、もう治りませんと言われた。その時、その病気を治す方法を手に入れることだけが解決でしょうか。今なにか問題があるとして、その問題は必ず解決されなければならないと思うのは、本当に正しいことなのでしょうか。それはすでに強迫の罠の中にいるのではないでしょうか。