いじめと階級

いじめられた時に、誰にも相談したくない、という感覚があると思う。自分で解決するのが難しければ、そして現状を継続するのが望ましくないなら、他者に頼ってでも解決を目指すべきなのに、それをするのを押しとどめようとする気持ちが当事者にはある。

それは多分、遭遇しているいじめが、「自分が社会の中で正当に扱われていない」ということを示しているからではないだろうか。

そもそも、いじめとは、「こいつは社会的に不当に扱っても良い」ということを行動で表し、周囲もそれを黙認することで、その社会が被害者を「社会の正統な構成員ではない」と認定することではないか。被害者をそのような地位に置いて、支配的に振る舞うこと。それが、いじめだ。

そして、被害者がそのように社会から扱われる時、被害者はそのことを認めたくないと思う。自分が社会から正統な構成員ではないと見られているという事実に耐えられない。だから、「これはいじめではなくていじりだよな」「俺たち友達だよな」という加害者の言動に抗することができない。

だから、いじめは表面化しにくくて、継続する。

加害者側から見ると、誰かの地位を自分よりも一段下げて支配するというのが、快感なのだと思う。いじめは楽しいからやるのだし、だからなくならない。いじめはエンターテインメントの一種だ。

社会の中に階級を作り出し、自分はより上位に位置したい。そういう欲求がヒトには本能的にあるのではないか。今時の世の中では、少なくとも表面的にはそういう欲求は適切なものとして評価されないから、そういうものはないことになっているけれど、意識できないレベルでそういう欲求をみんな抱えているのかもしれない。

社会的に許されない行為の被害者になることで「社会の正統な構成員ではない」という烙印を押されること。これは、いじめだけではなく、犯罪とされる行為においても同様の感覚があるのではないか。例えば強姦被害者は、ヒンズー教イスラム教の文化圏では名誉殺人の対象となる。日本においても、それほど極端でなくても、犯罪被害者がそのように扱われたり、自分でそのように感じることはめずらしくないらしい。子供が交通事故にあった時に現場から逃げてしまうという話も、もしかしたらこれなのかもしれない。犯罪被害者になるということは、その社会において正統な扱われ方から逸脱した対応をされたということなのだけれど、それが逆転して、犯罪被害者であるということが、正統な扱い方をしなくて良い存在だ、というふうに認知されるのだろうか。いずれにせよ、社会の正統な構成員であると自他ともに認められること。それは、社会の中で平穏に生きていく上で、根源的に必要な感覚なのではないか。

ヒトの社会における階級と、それにまつわるヒトの情動。そういうものについて、もっと意識的になり、客観視できるようになるための研究を誰かやってくれないものかしら。それとも、もうそういうものはあるのかな。