「確率とともに生きる」ということ

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たとえば、致死率がわずか0.1%の、弱いウィルスの感染が、いま広がっているとしよう。感染したひと千人のうちひとりしか死なない。そしてあなたも、あなたの家族も、まだ誰も感染すらしていない。そこに、「このウィルスは大豆にふくまれるタンパク質に弱く、豆腐を大量に食べると致死率が半分に減る」という噂が流れる。もともとわずかしかない致死率が、ただ半分に減るだけで、しかも出どころも根拠も怪しい話だ。

 

でも、たとえば自分に子どもがいたら、スーパーで豆腐を買わずにいられるかどうかを考える。買ってしまうのではないか。

 

豆腐一丁150円として、毎日3丁450円づつ買い続けることがどれだけの経済的負担か。あっという間に街中から姿を消してしまうだろう豆腐を求めて駆けずり回る時間と労力があるか。豆腐を毎日大量に食べ続けることのリスクはどれだけか。そして、それだけのコストをかけるのに十分な価値がこの噂にあるか。そういうことを評価して、それでもやる価値があると思えばやるだろうし、やれるだろう。この時、豆腐大量摂取によって生じるであろう利益と不利益を天秤にかけないで「もしかしたら」という思いだけにつられて行動するのは、単に愚かなことだ。

 

不妊治療に5年以上の時間と、数百万円の金を無駄に費やした。最後には、特に連れあいのほうは、毎月、排卵のタイミングに合わせておこなわれる治療で、心身ともにぼろぼろになった。私も全身麻酔の手術を2回おこなった(私は重度の無精子症だ)。

 

でも、「次の1回」の可能性がゼロでないかぎり、なかなか止めることができなかった。可能性が0.1%でも、もしそれを射止めることができたなら、そのときは「すべて」を得ることができる。もちろんこのすべてという表現は大げさなものだが、それでもその治療をしている最中はそれがすべてだった。だから、なかなか止めることができなかった。

 

「次の1回は……」という確率がいかに低くても、それですべてを得られるなら、私たちは、そしてあなたたちも、何度でも次の1回に賭けてしまうだろう。

 

それでも、可能性がゼロになる前に治療をやめる人はいる。治療を続ける利益とやめる利益、あるいは、続ける利益と続ける不利益を評価して、どうするのかを決めたのだろう。その際に、成功の確率がどれだけかというのは大いに参照されるべき数字だと思う。

 

未来のことは誰にもわからない。ある可能性が自分の身に起きる時はゼロかイチかだ。それが明らかになるまでは確率としてしかわからない。それでも、確率として捉えることができるなら、それは大いに参考にしたらいい。何もわからないよりは全然ましだ。それが、私にとっての「確率とともに生きる」という意味だ。確率を元に判断をして、それで賭けに負けることもあるだろう。でも、そもそも未来は誰にもわからないのだから、あてが外れたからと言って恨んでみても仕方ない。世界とはそういうものだ。

 

ワクチンを打てば流行病で死ぬ可能性が下がる。一方でワクチンを打つことで死ぬ可能性もある。流行病で死ぬ確率とワクチン接種で死ぬ確率を比べて、前者が後者に対してずっと大きければワクチンを打つだろう。その結果、死ぬかもしれない。でも、それが、交通事故にあって死ぬ確率よりもずっと小さい確率だとしたら、私はそれ(ワクチン接種による死)を受容しようと思う。なぜなら、私は交通事故にあって死ぬ未来の可能性をすでに受容して生きているのだから。こうやって、私は確率とともに生きている。

 

私たちは、確率というものと共に生きていけるほど、賢くはないのだ、と思う。まだ人類はそこまで進化していない。自分たちや、愛する家族がもしウィルスに感染して死んでしまったら、それは私たちにとっては、すべてを失うことと同じである。

 

確率がいかに低いか、ということを合理的に教えられても、私たちは、それが私たちのすべてを奪い去るものであるかぎり、それで納得はしないだろう。

 

私たちは、確率の数字では「癒されない」のだ。

 

誰だって、死ぬことを恐れている。どんなに低い確率でも、死ぬ可能性があると分かれば恐ろしい。だけど、生きているということは、いつでも死ねるということだ。死ねるということが生きていることの定義だと言ってもいいだろう。

 

生きていれば、いつでも死ねる。生きている間は、死ぬ可能性をゼロにすることはできない。死ぬ可能性がゼロなのは、すでに死んだ人だけだ。

 

当たり前のことなのに、それを納得できない。それがヒトの心というものだろう。そして、どんな人でも、年寄りでも若くても、病弱でも健康でも、死ぬときは死ぬんだ。それがいつかは死んでみなければ分からない。だけど、どんな人でも死ぬ時は死ぬ。それが世界の現実だ。どんなに納得がいかなくても、どんなに確率が低くても、死ぬ時は死ぬ。それを納得いくか、受け入れられるか、それは確率の話とは全然関係のないことだと思う。

 

人の死を受け入れるために必要なのは、死ぬ確率ではなくて「人はいつか必ず死ぬ」という事実だ。この当たり前すぎる事実から目をそらして生きていく限り、どんな話もどんな数字も癒しにはならないのではないか。