これはちょっと自慢なんだけれども、昼間うちにいると、ホニャホニャの証人のおばさんが来るじゃないですか。あの人と10年近く付き合ったことがある。
毎週決まった曜日の同じ時間に来て、玄関の上がりかまちに腰掛けて聖書研究なるものを1時間くらいやる。初めのうちは、当然、話の隙をついて論破してやろうと思っているわけですよ、こっちは。でも、そのおばさんは「なるほど、〇〇さん(私の名前)はそう思うんですね」と受け流す。ここがおかしいだろ??としつこく食い下がっても、最後は「時が至れば理解できるようになります」と来る。うまいことを言うもんだ。
「今日はもうこれで終わりにします」と急に話をたたんで帰ってしまうことが2、3回あったと思う。あれは、今にして思えば、私が彼らの神に対してあまりに失礼な物言いをしたのにおばさんが耐えきれず、かと言って私に怒るわけでもなく、ただその場を去ることで自分の身を守ろうとしたのではなかっただろうか。
私がどんなに彼らの信じる神にケチをつけても、おばさんは絶対に怒ることはなかったし、いつでも「そう思うんですね」と言って私の意見を否定しなかった。
そうやって「聖書研究」を続けるうちに、私は「論破してやろう」というりきみが取れていって、普通に、疑問に思うことや彼らとは違う感想を話すようになっていった(例えば、神は怒ることに遅いとか言うが、イエスの宮清めなんて単なるブチギレだろ、とか)。
イエスの行跡に関する話は興味深く、おばさんと感想を述べあったりする1時間が純粋に楽しみになっていった。だから、引っ越しでその関係が終わりになった時は、本当に残念に思った。
私は彼らの信仰を自分のものにしたいと思ったことは一度もない。「聖書研究」によって、むしろ私は積極的な無神論を奉ずるようになってしまったくらいだ。けれども、おばさんとの付き合いを通じて、私は大きな実りを得た。それは、立場や意見の違う人と普通に対話することは可能だという経験だ。
おばさんは私の言うことを訂正しようとはしたけれど、決して否定的に扱うことはしなかった。意見の一致を見ないときも、今はそれで良い、という立場をくずさなかった。そうやって私自身がおばさんに受け入れられているという感覚が、私の中にあった「論破してやろう」という攻撃的な気持ちを鎮めていったんだと思う。そもそもなぜ私が彼らに対して攻撃的だったのかというと、私自身が信じる思想信条とは相容れない立場を彼らが取っているからだろう。思想信条が相容れない相手とは行き着くところ殺し合い、というのは世の中よくあることなわけで、ヒトの心理がそもそもそういうふうにできているのかもしれない。でも、思想信条は所詮、情報に過ぎなくて、それ自体に人殺しをする力があるわけではない。それが殺し合いになるのは、思想信条と人殺しを結び付けて現実化するメディア(=人体)が存在するからだ。その結び付きは必ずしも必然ではなく、両者を切り離すことは可能なのだということを、あのおばさんは身をもって示してくれたと思う。
自分の意見は正しいから、全ての人が同意するべきだと思うことがあったとしても、そんなのは気のせいなのだ(仮にそうであるケースがあり得るとしても、それが自明であることはあり得ないので、まず、気のせいだと思って差し支えない)。それは、自分自身もそうだし、自分以外のどんな人でも同じくそうだ。だから、自分とは違う意見を持っていてそういう態度でくる人がいたら「あなたはそう思うんですね」と受け流せばよい。「何をたわけたことを」と怒る必要はない。むしろ、怒れば怒るほど、相手もムキになる。そうではなくて、否定も肯定もせずにさらりと受け流せばいい。もしかしたら、相手の言うことに一分の理があるかもしれない。そのくらいの気持ちで相手の意見を否定せずにその存在をそのまま許してやればよい。
相手の言うことを「あなたはそう思うんですね」と受け入れてみても、それで自分の意見まで変えなければならないわけではない。あなたはこう、私はこう、それでOKなのだ。殴り合いをして相手の意見を変える必要はない。相手がどう思うのかは相手が決めることであって、自分がどうこうする問題ではない。逆もまた然り。相手の意見と自分の意見との間には明確な境界があるべきで、そこがきちんとしていれば何を言われてもそう怖がることはない。
自分のことは自分で決める。相手は相手でそうする。ただそれだけのことなのだ。そして、それは可能だ。日本に住んでいれば、思想信条の違いで殺されることは、ないとは言わないけれど、そう心配する必要はないと思うよ。
(以下、追記)読み返してみて、なんかASD的な私がおばさんの信仰を踏みにじっていい気になっている話みたいに見えるなぁと思った。でも、そうじゃないんですよ。ここは信じてほしい。
「聖書研究」を通じて得たものがもうひとつあって、それは信仰というものの意義だ。正直言って彼らの信奉するストーリーは到底私には受け入れられないもので、なんであんなものを信じることができるのか私にはさっぱり理解できなかったんだけれど、けれども、そのストーリーが彼らを救っているのは間違いない事実なんだと思った。だから、私は彼らの信仰をバカにする気はない。私は縁がなかったけれどそれが必要な人もいて、そういう人はそこにすがればいいと思う。何を信じるかはその人が決めればよいのであって、他人がとやかくいうことではない。彼らの教義が私にとって信じがたいものだったからこそ、そのことが他人の信仰を尊重することの価値を私に教えてくれたと思う。
おばさんが私みたいな不信心のところへ雨の日も風の日も通い続けてくれたのは、イエスの示した愛にならって自ら愛を体現することで神の偉大さを証明するという教団の方針そのものだったと思う。あそこは伝統教団からは異端扱いされているらしいけど、それでもあのおばさんの行為は確かに愛と呼んでいいものだったと思う。彼らの示す信仰の道に入ることが私を世俗から救い出して神の王国へ至らせる狭い門だったわけで、おばさんは、私がそうやって救われるために、私のために尽くしてくれたわけだ。イエスが愚かな民衆や弟子たちに根気強く説き続けたように。
そのことはよくわかったんですよ。だから、私がちっとも信仰に至る気持ちにならなかったことについて、少しは申し訳ない気持ちもあったのだ。でも、そういう後ろめたさで入信するのは違うと思ったし、時が至れば入信したくなるのならその時を待てばよいのだと思って、常に自分の気持ちに正直にいた結果として、結局のところ私は入信には至らなかった。
彼女は色々なことを私に教えてくれた。私にとっては数少ない友人の一人だった。