haiku(2015-08-18)から転載

togetter.com

親が家庭で自分の思った通りにならない時に不機嫌そうな顔をして、子を言語によらず雰囲気で支配し行動をコントロールしようとする(例えば、部屋が片付いていない時に、言葉で指摘せず怒っている表情でそれをわからせようとする。子がそれに気づかないと「言われないとわからないのか」と言って怒る)。親は自分の価値観が普遍的であると考えており、子がそれを共有するのは当然と思っている。したがって、言葉で指摘するまでもなく子は自分が何をするべきかがわかるはずである、と考える。この場合に、子がするべきことをしていない状態は、親の価値観の普遍性を傷つけることになる(子が親の価値観を否定している)から、親はそのことについて怒りを感じ、それを子にぶつける。この時、親は、部屋が片付いているかどうかではなく、子が親の価値観を踏襲するかどうか(すなわち、親の自己同一性を子が毀損しないか)、を問うている。一方、この時の子の認識は、親の機嫌を損ねると不愉快な目に会うのでどのような理屈であれ親の意向を察して機嫌をとるように行動するのが自分の利益となる、ということになる。

このような環境で育つ子は、親の顔色を伺い、親の機嫌を損ねないことを基準とした社会性を身につけることになる。不機嫌な表情は、避けるべき事態のひとつとして重要となる。なぜその人が不機嫌なのかに関わらず(むしろその原因が不明であるがゆえに)、不機嫌な表情はその後の理不尽で不快な事態を予告する警報だからである。

このようにしつけられた人は、不機嫌な表情と安心して同居することができない。不機嫌な表情の存在は自分がするべきことをしていないことを示しているからだ。それが今や自分の思い過ごしであるとしても、子供時代に刷り込まれた因果関係を自覚し払拭するのは困難なのかもしれない。