haiku(2015-07-17)から転載

suminotiger.hatenadiary.jp

ここで言う"わかる"という言葉には、事情が分かるだけでなくて気持ちがわかる、というか共感する、という意味が含まれている。"わかってくれる"というのは共感するということ。たとえば、「道ばたでいきなり我が子を触られたら怖い」という気持ちについて、誰かが"そうだよね。あれって怖いよね"という時、"わかってくれた"となる。でも、同じ状況を"(見ず知らずの人が我が子を可愛がってくれて)うれしい"と思う人もいるわけで、だから、わかる人もわからない人もいて当然ではある。

こういう状況ではこう思うはずだ、という予測は、社会の中である程度共有されているはず(そうじゃなければ多分社会が成立しない)。だけれど、他人に対して"こう思うべきだ"というのを自明のこととして期待するのは、やっぱり違うことなんだよな。"なんか、わかってもらえないな"と思ったら、その事態は"今ここにそういうことがある"と受け入れるべきなんだろう。だって、実際にそうなんだから。それについて、さびしいというのはあるとしても、不満に思ったり不快に思ったりして自分の気持ちを無理やりなんとかして"わかってもらおう"とするのは、やっぱりやりすぎなんだよな。他人の気持ちは外から手を突っ込んで書き換えて良いものではないんだから。

自分の不快感を解消するために他人の有り様を自分の都合の良いように変えようとする。不快感を動機として他人に干渉する。そういう行為は、原則、有害なんだろう。

haiku(2015-03-15)から転載

togetter.com

党派性とか派閥とかで事の真偽を判断しているうちは、本当のところにはたどり着けない。というか、それが本当に正しい判断かどうかは、そこからでは決してわからない。

それが本当かどうかは、それを判断できる理路について、自分で調べ考えて自分で判断するより他に道はないのだ。けれども、それをするにはタフな知性と知識が必要だし、そもそもこのことを理解していない人が多い。このアマノ…さんも、自分がトンチンカンなことを言っているとは思ってないんだろうな。

haiku(2015-03-03)から転載

anond.hatelabo.jp

褒めて育てるというけれど、それは、子供のやる気を引き出して自ら伸びていく力を養うには重要なんだろうけれど、自尊心を育てるのはまた別の話なんじゃないか。

何かができるから価値がある(=できない奴はダメ)っていうんじゃ、生きててハッピーになれないんだと思う。自尊心っていうのは多分、自分はこの社会の中に生きていてもいいんだって思える根拠なんじゃないか。それは、親に"あなたにいてほしい、あなたのことが好きだから"と思ってもらうことが土台になるんじゃないか。その時に、親が"好きだ/いてほしい"と思う理由が「何かをする能力があるから」では、その能力がなかった/失ったときに自分の自尊心を維持できない。そうではなくて、能力に依存しない価値を存在の基盤に据えることで、いつまでも自尊心を失わない自我が形成されるのではないか。

haiku(2015-01-11, 01-13)から転載

www.youtube.com

産総研の粟田氏。なぜC-1、K破砕帯について検討するのかが明らかでないために、意味のある評価ができていない。浦底断層から派生していてもそれがどれだけの破壊力があるかは別の話であり、浦底断層との関係についてどう考えるのかという前提を欠いているために「つながってる/つながってない」の水掛け論に陥っている、という指摘だと思う。そこにある断層が直上の施設にどういう影響を与えうるのか、それを評価するべきなのに、そこが明らかでないので検討全体がナンセンスだということ。いろいろ言ってたけど、一番破壊的な発言だと思った。

もう一つ産総研の粟田氏の指摘。評価書のなかで、評価の根拠となるデータを示していない部分がある、これではこの評価が科学的かどうかを判断できない、と。これに対して規制庁からは、一般の人も読むことを考えて分量を少なくしたい、また、あまり専門的な内容を記述するのは避けたいから、という返答。これって、有識者が一旦判断したものはその真偽について詮索しない、したがって根拠が示される必要はない、と規制庁が考えてるっていうことだよな。すでにここに判断の責任について断絶がある。判断の真偽についての責任がこの谷間に落ちて、誰もそれを拾おうとしていない。そのことを粟田氏は指摘したけれど、今の体制では粟田氏にもそれを拾うことができない。事故から4年近く経つのに、規制当局は今まで一体何をしてきたんだろうね。

haiku(2014-10-29)から転載

d.hatena.ne.jp

ちょっと前の、盲学校生徒に対する暴行事件

matome.naver.jp

と、盲導犬への傷害事件

newcaja3k.blog92.fc2.com

前者は、犯人が知的障害者だったことが分かるとスッと沈静化した。後者は、そもそも事件じゃなかった可能性あり。現実のことかどうか、詳細な事実関係がどうか、ということとは関係なしに、人々の間で話題になるものがある。拡散力のある話題。デマもそうだ。それが実際に正しいかどうかとは関係なしに、拡散力を持っている。「エア論争」もそうなんだろう。仕掛人がどんなにがんばっても、拡散力のないネタは話題にならない。

何が拡散力なのか。どうすればそれを手なずけることができるのか。現実を反映しない、現実を良くする力を持たない話題が拡散して、それが人々を動かして害悪をもたらすのを、どうすれば防げるのか。

haiku(2014-09-24)から転載

togetter.com

レイシズムは社会的道徳とは相容れないことはみんな分かってる。KKKだって顔を隠してやるわけだ。けれど、反道徳的だけどみんなそう思ってると思うから、顔を隠してもやる。自分のやってることは社会的に(=多数に)肯定される理由があると思ってる。実感(不快感)と社会規範とのギャップ。

haiku(2014-09-22)から転載

www.huffingtonpost.jp

二つの極端な立場が存在する。一つは、「放射線はとにかく危険」「政府や科学者などの権威は私たちをだまそうとしている」というもの。その反対が「放射線は全く安全」「政府や科学者などの権威のある偉い人のいうことは全て正しい」というものである。

放射線には危険なものと問題ないものがあるし、ある人の言うことが本当か虚偽かは、その人の肩書きだけで分かるはずがない。だから、この記事の筆者が言うように、どちらの立場も間違っている。その放射線が危険かどうかは、個別の事象について評価しなければ分からない。ある人の言うことが正しいのか虚偽なのかは、誰が言ったかではなくて、その内容によって評価されなければ分からない。この二つの立場は、何が正しいのか、ではなくて、誰が正しいのか、という観点から物事を評価している。けれども、いつも正しい人というのは多分存在しない。普通は、同じ人が正しかったり間違っていたりするものだ。だから、権威について常に正しいとか騙そうとしているとか言うこと自体が、間違っている。それは、原発は事故を起こさない、あるいは、事故は避けがたい、というのと同じだ。そういうものごとの捉え方が、そもそも間違っているのだと思う。