haiku(2014-09-17, 09-25)から転載

b.hatena.ne.jp

謝罪を駆動するのが、社会的な要請の人と、自己の罪悪感の人との違い。社会的な要請によって自己の行動を規定される人は、その行動に納得がいかない時に社会に対する不満を持たざるを得ない。一方、自己の内部に限定される範囲に生じる感情によって自己の行動を規定される人は、自分の行動が自己の中で完結するので、自分の思いどおりにならない他者に対して不満を持つ必要がない。 「◯◯すべし」「◯◯しなければならない」(たとえば「他人に迷惑をかけてはいけない」とか)という規範を与えられて育った人は、社会に対する「愛」を持ちがたいのではないだろうか。

違うな。逆なんじゃないか。社会に対する愛がない、社会は自分を排除しようとするかもしれない、と思ってるから、排除されないように、社会的に問題がないように行動する必要がある。だから、行動規範が自分の外=社会にあるんだ。

haiku(2014-08-22)から転載

jbpress.ismedia.jp

TMI、チェルノブイリ、福島の事故の影響を調査した疫学者のインタビュー。TMIの時は健康被害はないと言って「被害を訴える住民たちからは不評を買った」り「健康被害について「過小」または「楽観的」という批判も反原発派から出ている」。一方で「チェルノブイリ事故ではヨウ素と小児性甲状腺がんの関連性をはっきり認めている」。これをインタビュアーは「証拠が見つからなければ、世論に抗してでもそう言うが、証拠があればはっきり認めるという、ある意味「ぶれない」疫学者」と評している。

世の中、科学者の事を御用だとか市民派だとかいうけれど、誰が言ったかで真偽が違ってくるなら、それは科学じゃない。なんだよ、ぶれない疫学者って。アホか。

haiku(2014-08-01)から転載

「心根が善であることは、その振る舞いが善であることを、担保しない。」地獄への道は善意で何たらとか言うしね。でも、その人自身はそれを善だと思うからこそするわけだ。ということは、その行為が善かどうかは誰が評価するかで変わってくる。で、その行為が他人に影響するようなものであれば、社会における評価というのが必要になる。本人が良いと思ってても社会ではNGみたいなことはあるわけだ。で、それじゃ社会における善とは何か。ある行為が他者に及ぼす影響について、その善悪をどう評価するのか。

善悪の基準は主観である(と私は思ってる)ので、匿名の他者に与える影響の善悪について客観的な評価は不能だ。となれば、可能な評価軸としては利益の量がある。利益の評価も主観的だけど、善悪よりは他者と共有できる程度が高いと思う。なので、社会的な行為について、それが社会にとって受入れられるかどうか、社会にとって価値があるかどうか、は、その行為によって生じる利益の量で評価すれば良い。のかな。

ていうか、他人の利益になるような事を為すのが、善なんじゃないのか、そもそも。善をなすと快感だから人は善を為すわけだけれど、じゃ、何が善なのかというのはその人の中でどのようにして決まるんだろうね。そこが現実と正しく対応していないのが問題なのか。

haiku(2014-04-12, 2016-06-04)から転載

call-of-history.com

「否認」を覚えるのは病気に対する自然な感情だという。 …… まず否認で自身の心を守り、徐々にその事実を受け入れて、正しい知識を学びながら病気という現実と向き合う。そこに「否認主義」は間違った情報を入れて、否認状態を続けさせ「不適応」化させる。否認主義に陥らないために重要なのは現実主義的なアプローチだという。HIVに限らず様々な病気に関する知識を全て理解するのは不可能だ。そこで重要なのは医師・科学者・専門家に対する信頼である。『すべては信頼に帰結する』(P271)のである。

結局、科学はシロウトにとっては信頼の対象なのだ。したがって、それは権威であり、権威に対する憎悪(弱者たる自分を守ろうとしないものに対する憎悪)を抱えている人にとっては決して協働できる相手ではない。それはむしろ自分を陥れる事を狙っている連中だ。彼らがそういうものに信頼を置こうとしないのはむしろ自然なのだろう。

なぜ権威を憎悪するのか。なぜ任意の他者への信頼が確立できないのか。自尊心が低めだとそうなのか。いずれにせよ、引用にあるように、これは、科学あるいは科学の成り立ちについての理解というよりも、他者に対する信頼の問題なのだと思う。欠如モデルが批判されるのも、そういう背景があるんだろう。対策としては、科学という権威に対して信頼の獲得を目指すのではなくて、一般に権威に対して信頼する力を醸成するという事なんじゃないだろうか。つまり、科学教育とか全然関係無くて、他者を信頼して互恵関係を築く事を恐れないとかそういう精神を養う事。具体的にそれが何なのかはよく分からないけど(少なくとも道徳教育とかではないよね)、そういう事ができれば、世の中もう少し合理的に動くようになるのではないかと思う。

なぜ任意の他者への信頼が確立できないのか。他者に対する信頼の基盤はエリクソンの「基本的信頼感」らしい。これを獲得するような養育者との関係を保証できるようになればいいんじゃないか。

haiku(2014-03-13)から転載

kabumatome.doorblog.jp

報道ステーションは通常営業な訳です。まず、1つ言いたいのは「戦前・戦中の報道についてもっぺん勉強して来い」。この手の輩が戦争を煽り、戦後は軍部の責任とか言うんだ。

これは一種の炎上商法で、人の不安につけ込んでいる。やってるほうは、経済的な利益を上げるだけじゃなくて、自分は社会の木鐸であるという満足と木鐸たることに対する賞賛を得るのも大きな動機なんだろう。一方、不安を持て余している視聴者は、自分の不安が共有されることで慰撫される。あるいは、原因たる悪者が特定されることが安心をもたらすかもしれない。そういう利益を視聴者は得ている。こうやって、番組をやるほうも見るほうも互いに利益を得ている。だから、こういう番組が無くならない。人は利益を得るように行動するからね。でも、その利益が気持ちだけのもので実際には損失を生むから、困るんだ。

利益を得るように行動しているけれど、実際には損失が生じている。この矛盾は、ひとつには利益を得る人と損失をこうむる人が違う、ということから生じる。ああいう番組見て喜ぶのは本当に切迫した状況にはいない人だと思う。本当に困ってる人はちゃんと現実と向かい合って勉強もしてるだろうから、番組のいい加減さが分かるしそこから生じる損失が見える。そういう人が被害者だ。もうひとつはもっと根源的なことで、そもそも、気持ちの上で利益を生じたとしてもそれが現実の利益につながる保証は無い、ということ。不安が解消しても元となる危険が解決したとは限らない、あるいは、不安を感じなくても危険なことはある、ということ。つまり、不安と危険は実際には一対一対応していないのだ。不安が危険の予兆であるなら、不安に思ったらその危険について現実的な評価をしなければ、現実における危険を解消することはできない。なのに、報道ステーションみたいなものは、心の不安を慰撫するだけで現実の危険について合理的な評価をしない。しないどころか不安を煽って現実を反映しない方向へ人々を煽動している。その結果として、危険が解消しないどころか風評被害などを生じている。要するに、不安は単なるモデルであり、合理的に評価しなければ現実には意味がない、ということ。

人が利益を得る(=快感情を増加させる)ように行動するとき、感情が現実に直結しているという誤認識が人々を誤った方向へ駆動している。似たような例として、

宋美玄 「女のカラダ、悩みの9割は眉唾」 - うさうさメモ

d.hatena.ne.jp

誰か説得してください(魚拓)

megalodon.jp

そうそう、テレ朝なのになんで朝日の大岩記者じゃなくて毎日の日野記者なんだろ。テレビと新聞って仲悪いの?

haiku(2014-01-11)から転載

以下、全文を引用「@ando_ryoko @J_Tphoto ええ、それも含めて、私は「福島のエートス」を安東さんが主宰される地域型勉強会と昔も今も理解しています。ロシャールさんとか有名な方がサポートして下さっていることから陰謀論を言う人がいますが私はそれに組みしません。」

福島のエートスを勉強会っていうのは違う気がする。勉強は必要があるからしてるのであって、結局の目的は、浜通りのあの場所でこれから生きていくためのやり方を当事者それぞれが手に入れるための”場所”を提供することなんじゃないか。なにか身につけるべき権威付けされた知識があってそれを勉強すれば良いのなら、そうすればいいけれど、それじゃ何も解決しないんだって言うのがそもそもエートスが始まるきっかけなんじゃないか。それは浜通りでもベラルーシでも同じなんだ。だからこそ、あれはエートスを名乗っているんだと思う。 なので、「有名な方がサポート」っていうのも違うと思う。だいたい、土地の年寄りたちはジャック・ロシャールが何者かなんて知らなかったわけだし、彼がその筋では有名だとしても、エートスにおいてそれは何の意味も持たない。たまたま彼が有名だというだけのことで、そこに意味があるわけじゃない。

ダイアローグセミナーが一体どのように機能しているのか、どういう意味を持っているのか、それは、参加者やギャラリーそれぞれによって違うのだろうけれど、私が感じるのは、「福島を見捨てない」という意志を持って実際に手足を動かして活動している人たちが居るのだということ、そして、それが福島に住む、あるいは、住みたいと思っている人たちにとって力になっているらしいということ、そういうことを感じられる場所である、ということだ。なにか統一的な見解とか解決法とか、そういうのをまとめるのが目的ではないんじゃないか。そういうんじゃなくて、個人個人が現状を改善するための具体的な活動を継続する力を手に入れる、みたいな、統一的というのとは正反対の、もっと個人的な、それぞれの思いや感じ方に依存した精神的あるいは実際的な何かをそこから汲み出していく、そういう場なんじゃなかろうか。

とても抽象的になっちゃって、なんかよく分からないんだけれど、とにかくあれは、普通の会議じゃない。なにか結論とか成果とかをまとめるなんて無意味なものだと思う(あと10年くらいしたら、いっぱいの目に見える成果が出てくるかもしれないけれど)。

放射能がなぜあんなに人の気持ちを動かすのか、どうすれば手なずけることができるのか、それを知りたいと思ってきたのだけれど、ダイアローグセミナーの機能はそれと裏腹なんだという気がする。だから、それが何なのかが分かる時には、放射能をどう扱えば良いかも分かるのかもしれない。そして、それは放射以外の、人の気持ちを動かすいろんなものについて考えることにきっとつながっているんだと思う。

 

haiku(2013-12-28)から転載

togetter.com

『「かわいい女性が部屋を掃除してくれたらいいなー」っていうことを望む人がいる』っていうことを不愉快に思う人がいる、ということなんじゃないか。で、典型的なケースとしては前者が男性(キモオタ)で後者が女性(フェミニスト)。不愉快に思う人はなんでそれが不愉快かというと、女性としてのありようを「いいなー」と思う人に強制されてる感じがするからじゃないか。典型のケースなら、女性が自分のありようを男性に規定されるという形になって、我慢ならない。

でも、だれかが「こうならいいなー」と言ったところでそれは強制ではない。経済が絡んでくると実質的に強制ってこともあるかもだけど、ここで問題にしたいのは、望まれる形が自らの望みと一致しない時に、それに対応できなくて怒りが生じるケース。自分のありようを自分の判断だけで決めることができないから、「こうならいいなー」とか言われただけでぶち切れちゃうんじゃないか、と、前から思ってるんだけど、どうだろか。「ふーん、あなたはそう思うのね。でも、私はそうは思わないしそうはしない」といえば、それで終了な話なわけだけれど、なにかそうできない理由があるんだろうか。