人生の手本

親が子の手本とならんとするのは当然のこととして、どういう手本を目指すのか。

 

聖人君子とは行かないまでも、尊敬されるような、良いことを行う、そういう偉い人物が手本だろうか。

 

人なんて誰だってダメなところがあって、素晴らしいところがあって、その両方が共存しているものなんだろう。そういうあり方こそが、人としてのリアルだ。立派な大人だって失敗するし、何かやらかしたら謝ったり反省したりする。やらなきゃいけないことを全てこなすなんて無理無理。そういうダメなところを子供に見せること、それこそが、大人としての手本なんじゃあるまいか。

 

「私は立派な大人だから、失敗なんてしませんよ。」そんな顔をしていたって、子供はちゃんと見抜いている。大人だって、親だってやらかすものだ。なのに、それを認めない。自分にはダメなところなどないというような顔をしてごまかす。

 

それじゃ、人生の手本にはならないんだ。だって、失敗やダメなところは生きていくのに付き物なんだから。問題は、立派に生きる方法じゃない。ダメなところにどう対応すればいいのか、それこそが人生の問題なんだ。そして、失敗した時、ダメだなぁと思う時、それにきちんと対応するには、まず第一に、それを自分で認めなければならない。それはもう取り返しがつかないことだ、と。

 

でも、それを認めるのは難しい。勇気がいる。大人だってなかったことにしてしまいたい。だから、やらかしたことに蓋をして、なかったことにして、見ないようにして、置き去りにしてしまう。

 

子供はそれを見抜いている。親が自分の人生をごまかしていることを。そういう親の言うことは、所詮、キレイごとの虚構だということを。そんな親の言うことを手本として聞く気になんかならないよ。

 

でも、本当は、何をやらかしたって、それを自分で認めることができれば、そこから道は開けるんだ。それなのに、なかったことにするから、いつまでもそこから離れることができない。

 

人生の手本とは、良い人生を生きるための知識だ。じゃ、良い人生とは何か。それは、幸せな人生のことだろう。じゃ、幸せとは何か。多分、それは、自分が自分自身であること。自分が自分を裏切らないこと。自分で自分を受け止めて、良いも悪いも、それが自分なんだと思うこと。そう思える人生が幸せなのではないか。どんな自分でも、今の自分を今は良しとする。それ以外の自分はあり得なかったと思う。そう思うために、自分のやらかしをごまかさずに受容する。そして、反省し、謝る。そういうあり方を子供に見せることが、親として示すべき手本なのではないか。

 

「確率とともに生きる」ということ

sociologbook.net

たとえば、致死率がわずか0.1%の、弱いウィルスの感染が、いま広がっているとしよう。感染したひと千人のうちひとりしか死なない。そしてあなたも、あなたの家族も、まだ誰も感染すらしていない。そこに、「このウィルスは大豆にふくまれるタンパク質に弱く、豆腐を大量に食べると致死率が半分に減る」という噂が流れる。もともとわずかしかない致死率が、ただ半分に減るだけで、しかも出どころも根拠も怪しい話だ。

 

でも、たとえば自分に子どもがいたら、スーパーで豆腐を買わずにいられるかどうかを考える。買ってしまうのではないか。

 

豆腐一丁150円として、毎日3丁450円づつ買い続けることがどれだけの経済的負担か。あっという間に街中から姿を消してしまうだろう豆腐を求めて駆けずり回る時間と労力があるか。豆腐を毎日大量に食べ続けることのリスクはどれだけか。そして、それだけのコストをかけるのに十分な価値がこの噂にあるか。そういうことを評価して、それでもやる価値があると思えばやるだろうし、やれるだろう。この時、豆腐大量摂取によって生じるであろう利益と不利益を天秤にかけないで「もしかしたら」という思いだけにつられて行動するのは、単に愚かなことだ。

 

不妊治療に5年以上の時間と、数百万円の金を無駄に費やした。最後には、特に連れあいのほうは、毎月、排卵のタイミングに合わせておこなわれる治療で、心身ともにぼろぼろになった。私も全身麻酔の手術を2回おこなった(私は重度の無精子症だ)。

 

でも、「次の1回」の可能性がゼロでないかぎり、なかなか止めることができなかった。可能性が0.1%でも、もしそれを射止めることができたなら、そのときは「すべて」を得ることができる。もちろんこのすべてという表現は大げさなものだが、それでもその治療をしている最中はそれがすべてだった。だから、なかなか止めることができなかった。

 

「次の1回は……」という確率がいかに低くても、それですべてを得られるなら、私たちは、そしてあなたたちも、何度でも次の1回に賭けてしまうだろう。

 

それでも、可能性がゼロになる前に治療をやめる人はいる。治療を続ける利益とやめる利益、あるいは、続ける利益と続ける不利益を評価して、どうするのかを決めたのだろう。その際に、成功の確率がどれだけかというのは大いに参照されるべき数字だと思う。

 

未来のことは誰にもわからない。ある可能性が自分の身に起きる時はゼロかイチかだ。それが明らかになるまでは確率としてしかわからない。それでも、確率として捉えることができるなら、それは大いに参考にしたらいい。何もわからないよりは全然ましだ。それが、私にとっての「確率とともに生きる」という意味だ。確率を元に判断をして、それで賭けに負けることもあるだろう。でも、そもそも未来は誰にもわからないのだから、あてが外れたからと言って恨んでみても仕方ない。世界とはそういうものだ。

 

ワクチンを打てば流行病で死ぬ可能性が下がる。一方でワクチンを打つことで死ぬ可能性もある。流行病で死ぬ確率とワクチン接種で死ぬ確率を比べて、前者が後者に対してずっと大きければワクチンを打つだろう。その結果、死ぬかもしれない。でも、それが、交通事故にあって死ぬ確率よりもずっと小さい確率だとしたら、私はそれ(ワクチン接種による死)を受容しようと思う。なぜなら、私は交通事故にあって死ぬ未来の可能性をすでに受容して生きているのだから。こうやって、私は確率とともに生きている。

 

私たちは、確率というものと共に生きていけるほど、賢くはないのだ、と思う。まだ人類はそこまで進化していない。自分たちや、愛する家族がもしウィルスに感染して死んでしまったら、それは私たちにとっては、すべてを失うことと同じである。

 

確率がいかに低いか、ということを合理的に教えられても、私たちは、それが私たちのすべてを奪い去るものであるかぎり、それで納得はしないだろう。

 

私たちは、確率の数字では「癒されない」のだ。

 

誰だって、死ぬことを恐れている。どんなに低い確率でも、死ぬ可能性があると分かれば恐ろしい。だけど、生きているということは、いつでも死ねるということだ。死ねるということが生きていることの定義だと言ってもいいだろう。

 

生きていれば、いつでも死ねる。生きている間は、死ぬ可能性をゼロにすることはできない。死ぬ可能性がゼロなのは、すでに死んだ人だけだ。

 

当たり前のことなのに、それを納得できない。それがヒトの心というものだろう。そして、どんな人でも、年寄りでも若くても、病弱でも健康でも、死ぬときは死ぬんだ。それがいつかは死んでみなければ分からない。だけど、どんな人でも死ぬ時は死ぬ。それが世界の現実だ。どんなに納得がいかなくても、どんなに確率が低くても、死ぬ時は死ぬ。それを納得いくか、受け入れられるか、それは確率の話とは全然関係のないことだと思う。

 

人の死を受け入れるために必要なのは、死ぬ確率ではなくて「人はいつか必ず死ぬ」という事実だ。この当たり前すぎる事実から目をそらして生きていく限り、どんな話もどんな数字も癒しにはならないのではないか。

 

人々の気分は誰かが書かないと残らない

yonemoto.blog

 

『[再録]スウェーデン断種法とナチス神話の成立 ――戦後精神史から近未来への視程を求めて』というタイトルのエントリー。1997年にスウェーデンの新聞に掲載された断種問題の記事に関連して書かれた記事(『中央公論』(1997年12月号)掲載)を2018年に再掲したもの。2018年当時、日本の旧・優生保護法による断種に関わる補償問題がクローズアップされていて、それを報じる報道について、

……だが、当時の状況についての説明は、恐ろしく不正確で一方的なものが多い。この問題を語るには、戦後史について、バランスの取れた認識が共有される必要がある。そこで、一部の字句を修正した上で、21年前に書いたものを、全文、ブログとして再録することにした。

 というわけで公開されたもの。「ナチス=優生社会=巨悪」という構図が第二次大戦後ずっと人々に共有されていたわけではない、それは割と最近のことなのだ、という話が書かれているのだけれど、そういう時代の気分みたいなものの移り変わりについて、下記のように指摘している。

 現代史研究の主課題の一つがここにある。

 有無をいわせぬ時間の流れは、個々人の意図や組織的な働きかけとは無関係に、われわれの意識・価値観・社会観・世界像を、日々のほんのわずか変質させていく。渦中にあるわれわれは、この微細な変化を意識することはまずない。しかし、10年たち20年たって振り返ってみると、現在との価値観のずれがいやでも目に映るようになる。さらに30年、40年と時間を隔てると、その落差は矛盾と見えるほど大きくなり、先人たちの行状を非難しなくてはならない事態も出てくる。この場面で歴史家は、現在からはひどく不合理とみえる過去の人たちの行動にも、それに見合った十全な理由があったはずだという大前提にたって、いまは消え去ったその時代の価値体系を提示してみせる責任を負っている。こういう慎重な歴史的検証を重ね合わせることで、現代史における誤りとされる事柄の概容が明らかになっていくのであり、歴史的責任論はその先にある課題である。 

 ところが日本のマスメディアのほとんどは、このニュースをもっぱらナチス優生政策や人種政策との類似性だけを強調する視点から扱った。ナチス=優生社会=巨悪という図式を微塵も疑わず、この解釈の枠組みの連想ゲームとして、オーストリアでもやっていた、スイスでもノルウェーでもやっていたと、ことさらおどろおどろしく書きたてたのである。そしてその延長線上に、96年6月のわが国の優生保護法の改正問題が置かれることになる。

 それにしても、日本の大新聞のほとんどが、戦後史をかくも無神経に、のっぺりとした平板なものとみなし、過去の事例を一方的に弾劾することで、何か社会的に有意味な警句を発したかのような錯覚に陥っている事実をみせつけられたことは、ほとんどスキャンダルと言ってよかった。消費されるためだけの一過性の話題作りをし、それが売れればそれでいいという志の低さである。

 

何が正しくて何が正しくないのか、許容できるものは何なのか、そういう価値観とか気分みたいなものは、その時代の人たちの間で共有される(=当然のものとして意識すらされない)が故に、あえて残そうとする人がいなければ記録になり難い。だから、昔の人がやらかした事などを考えるときに、「なんでまたこんなことを」と思ったら、その時は「昔の人たちはどう思っていたんだろうか」と想像してみること。昔の人の思いを自分は知らないんだということに思い至ることが大事なんだろうな。

 

人殺しは誰なのか

kokoro.squares.net

 

ワクチンがコロナを完全に解決するわけではない。それは、イスラエルやイギリスのようにワクチン接種が進んだ国でも感染者が急増する最近の状況を見ればわかる。だから

いま、喫緊の課題は未来である。
未来とは、新型コロナウィルスの国民へのワクチン接種が完了した後のことを指している。

というのはその通りだと思う。だけど、そのこととオリンピック開催とは全然関係ないじゃん。オリンピックが中止になっていたとしても、今後コロナをどうしていくのか、その問題はそっくりそのまま続くんだもん。だから、このエントリーの7.以降に書いてあるオリンピック反対と菅政権下げの話はこの「喫緊の課題」とは何の関係もないんだけど、エントリーの主旨としてはむしろこっちだったりする。

オリンピックを開催するとコロナ感染者が増えるから、オリンピックは中止するべきだ、そのためにアスリートはオリンピック参加を辞退するべき、そうしないなら彼らは人殺しだ、というような話が書いてある。確かにオリンピック開催によってコロナ感染者数は増えてるんだろう。尾身先生もこんなこと言ってたし。でも、オリンピックの開催によって救われた命もあるんじゃないかと私は思うよ(そういう美談とかありがちだし、経済的因果としてもありだろう)。それに、今の第五波が始まったのは6月下旬だったから、元々はオリンピックとは関係ないんじゃね?デルタ株の広がりによるところも大きいのではないか。

あるいは、ワクチン接種対策を支持してワクチンを打ち、「これで助かったわい」と思っている人だって人殺しになるかもしれない(ワクチンの副反応で死ぬ人がこれから出ないとも限らない)。

世の中、誰が人殺しで誰が人殺しじゃないかなんて、そんな簡単に割り切れるもんじゃないし、たいていの人は必ず誰かを殺してるんだと思う。例えば、生活する上で自動車による物流に依存している人(そうじゃない人なんか日本にはいないと思うけど)は交通事故で死ぬ人たちを殺してるんだよ?オリンピック選手に人殺しの顔をしろなんていう人は、まず自分の顔を見てみたらいいんじゃないかと思うよ。

 

いじめと階級

いじめられた時に、誰にも相談したくない、という感覚があると思う。自分で解決するのが難しければ、そして現状を継続するのが望ましくないなら、他者に頼ってでも解決を目指すべきなのに、それをするのを押しとどめようとする気持ちが当事者にはある。

それは多分、遭遇しているいじめが、「自分が社会の中で正当に扱われていない」ということを示しているからではないだろうか。

そもそも、いじめとは、「こいつは社会的に不当に扱っても良い」ということを行動で表し、周囲もそれを黙認することで、その社会が被害者を「社会の正統な構成員ではない」と認定することではないか。被害者をそのような地位に置いて、支配的に振る舞うこと。それが、いじめだ。

そして、被害者がそのように社会から扱われる時、被害者はそのことを認めたくないと思う。自分が社会から正統な構成員ではないと見られているという事実に耐えられない。だから、「これはいじめではなくていじりだよな」「俺たち友達だよな」という加害者の言動に抗することができない。

だから、いじめは表面化しにくくて、継続する。

加害者側から見ると、誰かの地位を自分よりも一段下げて支配するというのが、快感なのだと思う。いじめは楽しいからやるのだし、だからなくならない。いじめはエンターテインメントの一種だ。

社会の中に階級を作り出し、自分はより上位に位置したい。そういう欲求がヒトには本能的にあるのではないか。今時の世の中では、少なくとも表面的にはそういう欲求は適切なものとして評価されないから、そういうものはないことになっているけれど、意識できないレベルでそういう欲求をみんな抱えているのかもしれない。

社会的に許されない行為の被害者になることで「社会の正統な構成員ではない」という烙印を押されること。これは、いじめだけではなく、犯罪とされる行為においても同様の感覚があるのではないか。例えば強姦被害者は、ヒンズー教イスラム教の文化圏では名誉殺人の対象となる。日本においても、それほど極端でなくても、犯罪被害者がそのように扱われたり、自分でそのように感じることはめずらしくないらしい。子供が交通事故にあった時に現場から逃げてしまうという話も、もしかしたらこれなのかもしれない。犯罪被害者になるということは、その社会において正統な扱われ方から逸脱した対応をされたということなのだけれど、それが逆転して、犯罪被害者であるということが、正統な扱い方をしなくて良い存在だ、というふうに認知されるのだろうか。いずれにせよ、社会の正統な構成員であると自他ともに認められること。それは、社会の中で平穏に生きていく上で、根源的に必要な感覚なのではないか。

ヒトの社会における階級と、それにまつわるヒトの情動。そういうものについて、もっと意識的になり、客観視できるようになるための研究を誰かやってくれないものかしら。それとも、もうそういうものはあるのかな。

 

正しいことは社会的に正しい(はず)

 

自分が正しいと思うことが社会においてもそう認められていることは、その社会を生きていく上で多分とても大事なことだと思うんだな。これは、社会的動物であるヒトに備わっている本性なのではないか。そして、それなくしてその社会で安心して生きていくことができない。だから、自分の正しさが社会から認められない時、そしてその正しさが自分の利害に影響を与える時、何を差し置いても自分の正しさを主張しようとするし、そこから離れて放置することができない。しがみついてでもそれを手放そうとしない。

何が正しいのか、ということは、個人の思考の問題ではなくて、その人が所属する社会の問題として扱われるのではないか。社会がそれを正しいとするのかどうか。そういう意識が実は、正しさを求めるヒトを常に駆動しているのではないだろうか。何が正しいのかを考えるときに、そういう深層心理みたいなものによるバイアスがいくつも働いているのではないか。そういうバイアスが、論理的な真偽と倫理的な善悪(=快感と不快感)の境界をつなごうとしている気がする。

合理的正しさというものは、そう簡単に手に入るものではなくて、自分の中で正しさとは何なのか、という問いを繰り返すことで初めてその存在に気付くようなものなのかもしれない。学校で教科書に書いてあることを習うのは、権威を取り入れるだけのことであって、何が正しいのかを自ら判断する能力の涵養とはあまり関係ないのかもしれない。

 

yashio.hatenablog.com

 

 被害感情から陰謀論などにハマっていくのも、そのサイクルに似た感じかもしれない。
 被害感情そのものは苦しみでも、その苦しみを解消するために、何かへの攻撃や非難に転じている間は、「自分が正しい」という感覚で一種の気持ちよさが得られる。でもそこで得た快感は、「自分が気持ちよくなるためにそうした」のではなく「不公正を是正するためにそうした」と思わないといけなくなるので、さらにその正当化に資する情報ばかりを集めてしまう(より弱い刺激でも痒くなる状態みたいな)。
 YouTubeで関連動画がどんどん出てくるので「ネトウヨ」や陰謀論にハマってしまうと聞くけれど、このサイクルを円滑に回すのに役立ってしまう。

 

 陰謀論も、この感情を解決したい欲求に支えられている。被害感情を持ってしまったら、それを解消したくなる。「こいつらが悪い」と表明して自分の感情が解決できるならそれでいい。その理屈が現実に妥当かどうかはあまり関係がない。
 痒くても、日々の保湿を頑張ったり、薬を服用したり、我慢したりするより、今すぐ掻きむしった方が楽、みたいな。そういうやり方で手っ取り早く解消するのが癖になったり、あるいはそれ以外のやり方をそもそも知らないと、そのように攻撃し続けるしかない。

 

 主義や思想に限らず、会社や学校や家庭などもっと日常的にも、誰かや何かにイラっとしたり利害関係の衝突が起きた際に「被害者意識」が生じることはよくある。基本的に誰でも「自分は悪人じゃない」と信じたいので、衝突が発生した時に、咄嗟に「自分は悪くない=被害者だ」と思おうとするのは自然なことだろう。

 

 色んな反証を提示して反論するなど真正面から対抗すると、余計に悪化していく。相手にとって「我々が虐げられている」は「真実」なので、それを否定しようとする言論は全て「真実を(まだ)分かっていない人の発言」もしくは「虐げる側の人物の詭弁」にしか見えない。「お前はまだ真実を分かっていない」と説得されるならまだしも、「お前は虐げる側の人間だ」と見なされて自分が攻撃対象になると大変な状況になってしまう。

 

陰謀論の根底には被害感情がある、という指摘。被害感情という不快感を解消するために、そこから離れたくないから、陰謀論に耽溺していくのだ、と。

今、直面している辛さ、不快感(=被害感情)から逃れるために陰謀論に依存していく。陰謀論-依存症説。

 

blog.tinect.jp

…私が「違います」と否定していたら、おそらくその場では「おかしい」「おかしくない」という水掛け論になっていただろう。

 

そしてもう一つは「本当に私が間違っていること」があったことだ。

人間であればだれでも間違いはあり、「ちがう」と言わなくて本当に良かった、と思うことがしばしばあった。

 

ロンドン大学認知神経科学の教授である、ターリ・シャーロット氏は「事実に、人の意見を変える力はない」と述べている。

…結局のところ、ほとんどの局面で「事実を認めるよりも「間違いを指摘されたくない」とか「否定されたくない」などの欲求が勝る」のだ。

 

対話において、相手を否定するスタイルで相手を動かすことは難しいという話。相手の発言に対して「それは違う」と言うのは、事実関係の説明ではなくて、相手に対する否定的な評価を下していることになる。そして、否定的な評価に対する反応として一般的なのは「そんなことはない」というもの。だから、相手を動かしたいと思うなら、事実関係の描写に徹する、否定的な評価を与えない、ということに注意するべき。これは、陰謀論にハマっている人との対話でも同じことが言える。

 

nekojushoku.hatenablog.com

私達はファクトを持って陰謀論をねじ伏せられると思っている。しかし、100%あなたは間違っているという主張と、100%私は正しいという主張がぶつかっても、そこに対話は生まれない。

本当は、私達が正しいと思っていることは、いつひっくり返るかわからないし、私達が彼らと比べてより理性的で論理的だと言えるわけでもない。だからこそ、ほんの少しの歯車の掛け違いで、同じようなことを信じていたかもしれない。陰謀論に向き合うのは、「正しさ」ではなく、私もまた間違うかもしれないし、間違っているかもしれないとの思いだと思う。

 

…自分はカルト宗教の信者との対話を長年やってきて、自分が揺らぐことで相手もまた揺らいでいく経験を幾度もしてきた。

 

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」

自分が間違っているかもしれない、と思うことは、「お前は間違っている」と言われるのと同じように嫌なことだし、本気でそう思うのは簡単ではないけれど、そういう謙遜さを欠いては真摯な対話は生まれない。相手を受け入れる柔軟さと強さがあって初めて、相手は自分をこちらに委ねてくれる。

 

note.com

 

新型コロナの流行により陰謀論にとらわれていく人の記録。

 

彼女が慈善事業から、コロナは茶番、ノーマスクピクニックに変わるまで|ハラオカヒサ|note

これは依存症の一種なのかも。酒やタバコやドラッグ同じで、やってる時は元気になれる。

2021/06/08 11:12

b.hatena.ne.jp

 

ここでも陰謀論-依存症説。

 

anond.hatelabo.jp

 

陰謀論者と対立する増田。増田自身が自分の正しさにこだわっている。 

 

jp.quora.com

 

これも、陰謀論者をdisらずにはいられない回答者。陰謀論者が仲間を見つけてエコーチェンバーを作るのと同じように、陰謀論批判者もまた仲間を見つけて自分の正しさを確認したい欲求を持っている。

 

note.com

 

陰謀論者を許せない気持ち。世界観を共有しないつらさ、悲しみ。それが赤の他人ならどうでも良いかもしれないが、身内だった場合のやるせなさ。気持ちがつながっていると思っていた家族との間の断絶。

 

anond.hatelabo.jp

 

陰謀論に限らず、自分の正しさを認めない社会に対するいきどおりはどこにでも存在する。

 

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティで生きているからであり、自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないためだ。物事の仕組みについての知識は自分の頭の中に入っていると思っているが、実際にはその大部分は環境や他者から得ている。これは認知の特徴であると同時に、バグである。私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに依存している。理解とは、知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。

 

知識は個人ではなくコミュニティの中にある 

 

何が正しいのか。それはどうやって判断されるのか。その判断の基準(=知識)がコミュニティにあるとしたら、正しさの判断は個人の認知能力ではなくて、社会的に決まることになるが、それはそう目新しい話でもない。例えば、常識といわれるようなものは明らかにそれだ。そういう正しさの成り立ちが科学的な正しさにも無意識に適用されていて、それで、自説の正しさを社会的なものにしようとする情動(それが本当に正しいなら、社会的にも正しいはずだ、という確信)が存在するのかもしれない。

倫理的な正しさはカーネマンのいうところのシステム1で、科学的な正しさはシステム2で判断されるとして、それらを異なるスタイルで扱うことが十分にできていないことが原因のバグなんだろうか。科学的な正しさはシステム2できちんと理路を踏んで正しさを判定するとしても、最後の最後はシステム1の作用による判断なのかもしれない。だって、何かを科学的に正しいと思うとき、その思いがどこから来るのか、私にはその論理をうまく説明することができないなぁっていつも思うから。

 

 

なぜAD/HDとASDがしばしば随伴するのか

なぜAD/HDとASDがしばしば随伴するのか。それは、AD/HDの衝動性が持つ攻撃的な面をASDの鈍感さが帳消しにしているからではないか。

shorebird.hatenablog.com 

この記事は、ヒトの攻撃性が抑制されて利他的傾向や協調性が生まれた進化的道筋について書いた本の書評なんだけど、その中で「処刑仮説」というのが出てくる。これは、攻撃的・暴力的な人は処刑によって社会から取り除かれるために、段々とヒトの攻撃性が抑制される、という説。この本では攻撃性を反応的攻撃性と能動的攻撃性の二つに分けて、

反応的攻撃は脅威に対する反応でテストステロンの濃度が関係する.怒りを伴い,しばしば感情を爆発させる.些細な侮辱から生じる殺人などがこの例だ.現代社会の多くの殺人はこのタイプの暴力によるもので,しばしば名誉や敬意が絡み,経済的文化的な影響を受ける.

能動的攻撃は冷静に計画された暴力だ.なんらかの目的のための意図的攻撃であり,怒りなどの感情表現は必須ではない.準備された奇襲攻撃がこの例だ.

として、処刑の対象となるのは反応的攻撃性であり、処刑制度を成立させたのが能動的攻撃性だとする。ここに、道徳の話が絡んできてとても面白いのでぜひ読んでみて欲しいのだけれど、今したいのはその話ではない。

反応的攻撃性が処刑の対象となるなら、AD/HDの人はその衝動性のゆえに真っ先に処刑されてしまいそうに思う。一方で反応的攻撃性の「しばしば名誉や敬意が絡み,経済的文化的な影響を受ける」という特徴は、ASDの人が疎いとされる社会的な感覚ではないかと思う。つまり、AD/HDとASDが随伴していると、AD/HDの衝動性が反応的攻撃性につながらない可能性があると思うのだ。もちろん、ASDを随伴しないAD/HDの人もいるけれど、両者が随伴するケースが多いことの理由に、こういう背景があるんじゃないかという、シロウトの思い付き。