自分が正しいと思うことが社会においてもそう認められていることは、その社会を生きていく上で多分とても大事なことだと思うんだな。これは、社会的動物であるヒトに備わっている本性なのではないか。そして、それなくしてその社会で安心して生きていくことができない。だから、自分の正しさが社会から認められない時、そしてその正しさが自分の利害に影響を与える時、何を差し置いても自分の正しさを主張しようとするし、そこから離れて放置することができない。しがみついてでもそれを手放そうとしない。
何が正しいのか、ということは、個人の思考の問題ではなくて、その人が所属する社会の問題として扱われるのではないか。社会がそれを正しいとするのかどうか。そういう意識が実は、正しさを求めるヒトを常に駆動しているのではないだろうか。何が正しいのかを考えるときに、そういう深層心理みたいなものによるバイアスがいくつも働いているのではないか。そういうバイアスが、論理的な真偽と倫理的な善悪(=快感と不快感)の境界をつなごうとしている気がする。
合理的正しさというものは、そう簡単に手に入るものではなくて、自分の中で正しさとは何なのか、という問いを繰り返すことで初めてその存在に気付くようなものなのかもしれない。学校で教科書に書いてあることを習うのは、権威を取り入れるだけのことであって、何が正しいのかを自ら判断する能力の涵養とはあまり関係ないのかもしれない。
yashio.hatenablog.com
被害感情から陰謀論などにハマっていくのも、そのサイクルに似た感じかもしれない。
被害感情そのものは苦しみでも、その苦しみを解消するために、何かへの攻撃や非難に転じている間は、「自分が正しい」という感覚で一種の気持ちよさが得られる。でもそこで得た快感は、「自分が気持ちよくなるためにそうした」のではなく「不公正を是正するためにそうした」と思わないといけなくなるので、さらにその正当化に資する情報ばかりを集めてしまう(より弱い刺激でも痒くなる状態みたいな)。
YouTubeで関連動画がどんどん出てくるので「ネトウヨ」や陰謀論にハマってしまうと聞くけれど、このサイクルを円滑に回すのに役立ってしまう。
陰謀論も、この感情を解決したい欲求に支えられている。被害感情を持ってしまったら、それを解消したくなる。「こいつらが悪い」と表明して自分の感情が解決できるならそれでいい。その理屈が現実に妥当かどうかはあまり関係がない。
痒くても、日々の保湿を頑張ったり、薬を服用したり、我慢したりするより、今すぐ掻きむしった方が楽、みたいな。そういうやり方で手っ取り早く解消するのが癖になったり、あるいはそれ以外のやり方をそもそも知らないと、そのように攻撃し続けるしかない。
主義や思想に限らず、会社や学校や家庭などもっと日常的にも、誰かや何かにイラっとしたり利害関係の衝突が起きた際に「被害者意識」が生じることはよくある。基本的に誰でも「自分は悪人じゃない」と信じたいので、衝突が発生した時に、咄嗟に「自分は悪くない=被害者だ」と思おうとするのは自然なことだろう。
色んな反証を提示して反論するなど真正面から対抗すると、余計に悪化していく。相手にとって「我々が虐げられている」は「真実」なので、それを否定しようとする言論は全て「真実を(まだ)分かっていない人の発言」もしくは「虐げる側の人物の詭弁」にしか見えない。「お前はまだ真実を分かっていない」と説得されるならまだしも、「お前は虐げる側の人間だ」と見なされて自分が攻撃対象になると大変な状況になってしまう。
陰謀論の根底には被害感情がある、という指摘。被害感情という不快感を解消するために、そこから離れたくないから、陰謀論に耽溺していくのだ、と。
今、直面している辛さ、不快感(=被害感情)から逃れるために陰謀論に依存していく。陰謀論-依存症説。
blog.tinect.jp
…私が「違います」と否定していたら、おそらくその場では「おかしい」「おかしくない」という水掛け論になっていただろう。
そしてもう一つは「本当に私が間違っていること」があったことだ。
人間であればだれでも間違いはあり、「ちがう」と言わなくて本当に良かった、と思うことがしばしばあった。
ロンドン大学の認知神経科学の教授である、ターリ・シャーロット氏は「事実に、人の意見を変える力はない」と述べている。
…結局のところ、ほとんどの局面で「事実を認めるよりも「間違いを指摘されたくない」とか「否定されたくない」などの欲求が勝る」のだ。
対話において、相手を否定するスタイルで相手を動かすことは難しいという話。相手の発言に対して「それは違う」と言うのは、事実関係の説明ではなくて、相手に対する否定的な評価を下していることになる。そして、否定的な評価に対する反応として一般的なのは「そんなことはない」というもの。だから、相手を動かしたいと思うなら、事実関係の描写に徹する、否定的な評価を与えない、ということに注意するべき。これは、陰謀論にハマっている人との対話でも同じことが言える。
nekojushoku.hatenablog.com
私達はファクトを持って陰謀論をねじ伏せられると思っている。しかし、100%あなたは間違っているという主張と、100%私は正しいという主張がぶつかっても、そこに対話は生まれない。
本当は、私達が正しいと思っていることは、いつひっくり返るかわからないし、私達が彼らと比べてより理性的で論理的だと言えるわけでもない。だからこそ、ほんの少しの歯車の掛け違いで、同じようなことを信じていたかもしれない。陰謀論に向き合うのは、「正しさ」ではなく、私もまた間違うかもしれないし、間違っているかもしれないとの思いだと思う。
…自分はカルト宗教の信者との対話を長年やってきて、自分が揺らぐことで相手もまた揺らいでいく経験を幾度もしてきた。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
自分が間違っているかもしれない、と思うことは、「お前は間違っている」と言われるのと同じように嫌なことだし、本気でそう思うのは簡単ではないけれど、そういう謙遜さを欠いては真摯な対話は生まれない。相手を受け入れる柔軟さと強さがあって初めて、相手は自分をこちらに委ねてくれる。
note.com
新型コロナの流行により陰謀論にとらわれていく人の記録。
b.hatena.ne.jp
ここでも陰謀論-依存症説。
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陰謀論者と対立する増田。増田自身が自分の正しさにこだわっている。
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これも、陰謀論者をdisらずにはいられない回答者。陰謀論者が仲間を見つけてエコーチェンバーを作るのと同じように、陰謀論批判者もまた仲間を見つけて自分の正しさを確認したい欲求を持っている。
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陰謀論者を許せない気持ち。世界観を共有しないつらさ、悲しみ。それが赤の他人ならどうでも良いかもしれないが、身内だった場合のやるせなさ。気持ちがつながっていると思っていた家族との間の断絶。
anond.hatelabo.jp
陰謀論に限らず、自分の正しさを認めない社会に対するいきどおりはどこにでも存在する。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
「知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティで生きているからであり、自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないためだ。物事の仕組みについての知識は自分の頭の中に入っていると思っているが、実際にはその大部分は環境や他者から得ている。これは認知の特徴であると同時に、バグである。私たちの知識ベースの大部分は、外界とコミュニティに依存している。理解とは、知識はどこかにあるという認識でしかないことが多い。高度な理解とは、たいてい知識が具体的にどこにあるかを知っているというのと同義である。実際に自らの記憶に知識を蓄えているのは、真に博識な人のみである。」
知識は個人ではなくコミュニティの中にある
何が正しいのか。それはどうやって判断されるのか。その判断の基準(=知識)がコミュニティにあるとしたら、正しさの判断は個人の認知能力ではなくて、社会的に決まることになるが、それはそう目新しい話でもない。例えば、常識といわれるようなものは明らかにそれだ。そういう正しさの成り立ちが科学的な正しさにも無意識に適用されていて、それで、自説の正しさを社会的なものにしようとする情動(それが本当に正しいなら、社会的にも正しいはずだ、という確信)が存在するのかもしれない。
倫理的な正しさはカーネマンのいうところのシステム1で、科学的な正しさはシステム2で判断されるとして、それらを異なるスタイルで扱うことが十分にできていないことが原因のバグなんだろうか。科学的な正しさはシステム2できちんと理路を踏んで正しさを判定するとしても、最後の最後はシステム1の作用による判断なのかもしれない。だって、何かを科学的に正しいと思うとき、その思いがどこから来るのか、私にはその論理をうまく説明することができないなぁっていつも思うから。