人生の手本

親が子の手本とならんとするのは当然のこととして、どういう手本を目指すのか。

 

聖人君子とは行かないまでも、尊敬されるような、良いことを行う、そういう偉い人物が手本だろうか。

 

人なんて誰だってダメなところがあって、素晴らしいところがあって、その両方が共存しているものなんだろう。そういうあり方こそが、人としてのリアルだ。立派な大人だって失敗するし、何かやらかしたら謝ったり反省したりする。やらなきゃいけないことを全てこなすなんて無理無理。そういうダメなところを子供に見せること、それこそが、大人としての手本なんじゃあるまいか。

 

「私は立派な大人だから、失敗なんてしませんよ。」そんな顔をしていたって、子供はちゃんと見抜いている。大人だって、親だってやらかすものだ。なのに、それを認めない。自分にはダメなところなどないというような顔をしてごまかす。

 

それじゃ、人生の手本にはならないんだ。だって、失敗やダメなところは生きていくのに付き物なんだから。問題は、立派に生きる方法じゃない。ダメなところにどう対応すればいいのか、それこそが人生の問題なんだ。そして、失敗した時、ダメだなぁと思う時、それにきちんと対応するには、まず第一に、それを自分で認めなければならない。それはもう取り返しがつかないことだ、と。

 

でも、それを認めるのは難しい。勇気がいる。大人だってなかったことにしてしまいたい。だから、やらかしたことに蓋をして、なかったことにして、見ないようにして、置き去りにしてしまう。

 

子供はそれを見抜いている。親が自分の人生をごまかしていることを。そういう親の言うことは、所詮、キレイごとの虚構だということを。そんな親の言うことを手本として聞く気になんかならないよ。

 

でも、本当は、何をやらかしたって、それを自分で認めることができれば、そこから道は開けるんだ。それなのに、なかったことにするから、いつまでもそこから離れることができない。

 

人生の手本とは、良い人生を生きるための知識だ。じゃ、良い人生とは何か。それは、幸せな人生のことだろう。じゃ、幸せとは何か。多分、それは、自分が自分自身であること。自分が自分を裏切らないこと。自分で自分を受け止めて、良いも悪いも、それが自分なんだと思うこと。そう思える人生が幸せなのではないか。どんな自分でも、今の自分を今は良しとする。それ以外の自分はあり得なかったと思う。そう思うために、自分のやらかしをごまかさずに受容する。そして、反省し、謝る。そういうあり方を子供に見せることが、親として示すべき手本なのではないか。