人々の気分は誰かが書かないと残らない

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『[再録]スウェーデン断種法とナチス神話の成立 ――戦後精神史から近未来への視程を求めて』というタイトルのエントリー。1997年にスウェーデンの新聞に掲載された断種問題の記事に関連して書かれた記事(『中央公論』(1997年12月号)掲載)を2018年に再掲したもの。2018年当時、日本の旧・優生保護法による断種に関わる補償問題がクローズアップされていて、それを報じる報道について、

……だが、当時の状況についての説明は、恐ろしく不正確で一方的なものが多い。この問題を語るには、戦後史について、バランスの取れた認識が共有される必要がある。そこで、一部の字句を修正した上で、21年前に書いたものを、全文、ブログとして再録することにした。

 というわけで公開されたもの。「ナチス=優生社会=巨悪」という構図が第二次大戦後ずっと人々に共有されていたわけではない、それは割と最近のことなのだ、という話が書かれているのだけれど、そういう時代の気分みたいなものの移り変わりについて、下記のように指摘している。

 現代史研究の主課題の一つがここにある。

 有無をいわせぬ時間の流れは、個々人の意図や組織的な働きかけとは無関係に、われわれの意識・価値観・社会観・世界像を、日々のほんのわずか変質させていく。渦中にあるわれわれは、この微細な変化を意識することはまずない。しかし、10年たち20年たって振り返ってみると、現在との価値観のずれがいやでも目に映るようになる。さらに30年、40年と時間を隔てると、その落差は矛盾と見えるほど大きくなり、先人たちの行状を非難しなくてはならない事態も出てくる。この場面で歴史家は、現在からはひどく不合理とみえる過去の人たちの行動にも、それに見合った十全な理由があったはずだという大前提にたって、いまは消え去ったその時代の価値体系を提示してみせる責任を負っている。こういう慎重な歴史的検証を重ね合わせることで、現代史における誤りとされる事柄の概容が明らかになっていくのであり、歴史的責任論はその先にある課題である。 

 ところが日本のマスメディアのほとんどは、このニュースをもっぱらナチス優生政策や人種政策との類似性だけを強調する視点から扱った。ナチス=優生社会=巨悪という図式を微塵も疑わず、この解釈の枠組みの連想ゲームとして、オーストリアでもやっていた、スイスでもノルウェーでもやっていたと、ことさらおどろおどろしく書きたてたのである。そしてその延長線上に、96年6月のわが国の優生保護法の改正問題が置かれることになる。

 それにしても、日本の大新聞のほとんどが、戦後史をかくも無神経に、のっぺりとした平板なものとみなし、過去の事例を一方的に弾劾することで、何か社会的に有意味な警句を発したかのような錯覚に陥っている事実をみせつけられたことは、ほとんどスキャンダルと言ってよかった。消費されるためだけの一過性の話題作りをし、それが売れればそれでいいという志の低さである。

 

何が正しくて何が正しくないのか、許容できるものは何なのか、そういう価値観とか気分みたいなものは、その時代の人たちの間で共有される(=当然のものとして意識すらされない)が故に、あえて残そうとする人がいなければ記録になり難い。だから、昔の人がやらかした事などを考えるときに、「なんでまたこんなことを」と思ったら、その時は「昔の人たちはどう思っていたんだろうか」と想像してみること。昔の人の思いを自分は知らないんだということに思い至ることが大事なんだろうな。