haiku(2011-06-18)から転載

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 nt46さんのブコメ「 危い話だが"極力避けるべき"は、たとえ検出できないほどの低確率であっても高確率で確率の犠牲者は存在し得、しかもその確率の生贄となった者は生贄だったかどうかすら不明という不正義に対してじゃないのか。」

毒性学的に”極力避けるべき”というのは、1分子でも影響が出る可能性があるから。その影響をこうむった人が、生け贄であるとかそれが不正義であるとかいうことは、毒性学的には問題にならない。というか、問題にできない。

同じ”極力避けるべき”という表現が、読者の側にはすでに別の意味で存在しているときに、それと違う意味をもたらす文脈での同じ表現が、本来意図した意味に解釈されない、というのは、いかにもありそうな話ではある。

で、「そのような微量のレベルでは、ほかのがん要因にかき消され、閾値があろうがなかろうが、「リスクの上昇」には至らない。したがって、実際の私たちの生活における対策において、この問題は考慮しなくてよい。無視してよい。」って、ここまで断言されてもやっぱり受入れられない、というのは、これがリスク評価の問題ではなくて、それがいいのか悪いのか、とか、好き嫌い、とかの問題だから、ということでいいんじゃないか。

それが不正義だから許せない、そういうことなんではないか。

だとしたら、今必要な言説はいったいどういうものなのかねぇ。不正義だから許せないと思っている人は、放射能に対する不安とかどう感じているんだろうか。精神的なダメージを生じるような状態にあるんだろうか。もしないんだったら特に対策も必要ないんだろうけれど、どうなんだろ。