haiku(2011-06-01)から転載

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「本当はどうなるのかは確実には分かりませんが、ちゃんと分かったときには既に大変な事態」だから、予防的に行動することが必要である、という趣旨だと思うのだけど、同じ趣旨の発言として Togetter - 「地震のどさくさに差別をたれ流す人々」 の「デマだって、本当だった場合とデマだった場合の予想される損失の期待値を見れば、伝聞を広げた人を責められないはず。むしろ責める人の神経が信じられない」を思い出した。どちらも、それがもし本当だったら致命的な事態が出来するので、今は真偽は不明だけれど、それを真であると想定して行動すべし、ということ。で、後者では、そのような行動様式が差別を生むことになるし、前者では風評被害(正しくないうわさによって経済的損失が生じること)を生む。 けれども、”もし本当だったら致命的な事態が出来する”という予想が人々に恐怖を生じさせるので、差別(や風評被害)が起きるかどうかより自分の(あるいは家族の、子どもの)命のほうが大事に決まっているではないか、という考えが正当と評価されがちであり、広く共感を呼ぶ。 このような感覚について、”あなたのその考えは間違っていますよ”と正面切って言ってみても、たぶん通じないんだろうなぁ。

いや、違うな。その考えが間違っているわけではないな。”あなたが真であると想定していることがもし偽であった場合に、あなたが今していることは社会に悪い影響を与えるものですよ。そのリスクを取ることを考えてください。”だな。